ころんたの日記

※転載の際は出典の明記をお願いいたします

日記

2004年11月の日記



異動と引越しが怒涛のように重なった3月以降風邪なんかひいたことなかったのに。くやしい。マイノリティグループ(^^;、として戦線離脱するわけにはいかん。しかし・・・Wくやしい。やってらんない、というのもあって悪化した感じ。へろへろになって帰宅。新月、あわただしいが、それも動きがどんどん大きくなってきたってことなのだろう。


朝いちミーティング。月曜の朝はこれがあるので、日曜日はなかなか夜遊びができんのである。しかし・・これからどうなるのだろう。わたしも風邪ひいてる場合じゃないっつーの。しかし・・・。いや、考えても仕方ない。自分の職場でのスタンスをきっちり固めよう。
新月関連含めて順調すぎた昨年秋から今年。来年はちょいと北風が吹くかも。でも、わかっていれば怖くない。


わたしは母や叔母にかなり残酷なことをしてしまったようだ。単に記憶をきっちり埋めることと、益田家の膨大な茶道具もトラックで運ばれ売り払われるような零落と同時進行に語られる母たちの歴史を残したいと思ったのだが、母たちの父、つまりわたしの祖父が亡くなった為、母は16歳で高校を中退、一家の経済がわずか16歳の母の手に委ねられ、わたしが過去を聞いた事によりきょうだいが「もっともつらすぎて思い出したくないこと」の記憶を呼び覚ましてしまったという事だった。
母や叔母たちを泣かせるつもりはなかったのだ・・。母は思い出したくはないが、呆ける前に伝えておかねばならないかもしれない、短い言葉で綴ってくれたが、辛い部分をこれ以上掘り下げてしつこく聞く権利があるのか疑問。しかし、なんなんだろう、わたしは。母や叔母のメール(CCで送っている)に泣かされながら、頭の隅では冷静に、もっと知りたい。と思う。ひどい人間だと思う。
羽振りの良かった祖父の父の代からのフクザツきわまる家系図から、母の家の没落ぶり等を紙に書いてもらった資料がひっこしのどさくさでどこかにまぎれてしまったが、必ずあるはずなので、探してみなければ。母や叔母のなみだの分、身内にきちんと「資料」として聞いたことをまとめねば。
これは来年の課題。



母の帯 ピンクを基調とした繻子に竜の刺繍がしてある叔母の色大島

体調すぐれないまま、あわてて着物着る。ぽかぽか陽気に着てみて外へでて気づいたが、こんな日は叔母の緑の色大島と鮫小紋と母の帯はえらく地味じゃった。相変わらず着付け下手。
おまけに風邪で顔はおちくぼんでるわ、シャンプーがあわなくて髪がへんで(体調のせいだったらしい)ぼーぼーだわ、着崩れ怖くて長襦袢の胸紐締めすぎて夜は帰りの電車でゲロ吐きたくなるほど気持ち悪くなる。
下手なくせに、補正がキライでいつもこのくらい締めないと気がすまないのになんで、こんなに痛いのだろうと思ったら、あわてていたので、紐をいつものように平たくつかわず、紐が細く細くなって食い込んでいたのだ。痛いわけだ。だいたい朝から出かけて15,6時間くらい着物で過ごしてたらふく食って、酒飲んでもへーきなのに、早く着物脱ぎたいあーあ!なんて思った事ないのに、いや、昨日はさすがに帰りの電車の中では、はやく帰って着物脱ぎたいっと思って家に帰ってもう、とにかく、一刻も早く長襦袢まで脱ぎたくて手がもどかしいくらいで、ぎりぎりに食い込んだ胸紐を解いたときはほんとにうううほっとした〜。

しかし、途中寄ったデパートで写ったおのれの姿にがっかりする。髪がぼーぼーの上にとにかく着物が地味なら、帯はもっと派手にすればよかった。とにかく顔もへろへろ、なんかどてらの方が似合いそうだ。何が着物日記だ。「どてら日記」に改名するか。なんか情けない。

待ち合わせしたがわたしは体調すぐれず、8ヶ月ぶりに会った友人は二日酔い(^^;。でも1時半からのアフタヌーンランチに行く。お互い体調が悪いので、体にいい赤ワインを頼もうとキアンティをいっぱいづつ頼むが、二日酔いの友人まったくすすまず。ころんた美味しくいただく。
メニューは「クラブミートカクテルにフレッシュフルーツと根セロリのサラダ和え」「オマール海老入りトマトソース和えのスパゲッティ」 「イタリア米カルナロリの鴨肉と栗の煮込み入りリゾット」「白身魚のソテー、海老、ケッパー、ピクルス入りソース」口直しに「フルーツシャーベット」「小牛フィレ肉ステーキ秋のきのこ入りソース」パンにエスプレッソにケーキはティラミスとパンナコッタだった。体調わる〜と言いながら完食。なかなか美味しかった。

ホントに小春日和で暖かい。しかし、己れの姿がやだなあ。でも、メンバーの方に大事な伝言頼まれているので、姿隠すわけにはいかないし〜。25年ぶりのシルエレは、印象と全然違っていた。ライブ前のばたばたしているメンバーの方たちに声をかけてしまい、申し訳なかった。そこで仰天。新月のアルバムを出してくださっているポセイドンレーベルの社長さんに声をかけていただいた。いつもメールのやりとりはしているけど、お会いするのは初めてで、ビックリ。
しかし、自分の姿の情けなかったこと(^^;。あらかじめ「水鏡」のライブに行きますとは伝えてあったけど、増田さんが来られるとは思っていなかった。
そ、そうか増田さんのところから「水鏡」のCD出してるんだから来られて当然なのだった。ひえ初対面なのに。こんなことならもちっと考えてましな格好すればよかったと後悔しきり。
今日ふらふら歩いている最中に17日の詳細をメールで送ってくださったそうで、結局メルマガを購読している人の方が先に情報を受け取った形となってしまった。新月サイトの情報の方が遅れてしまったわい。
新月の北山さんのSNOWレーベルの再盤CD2枚がいよいよ明日発売となので、納品された帰りだとの事。ついに明日か!嬉しい!
ひさびさにライブハウスで3時間ほどたちっぱなし。増田さんが席を譲ってくださったが、食い込む胸紐いてーよちくしょー(専門用語で一人SMという。ほんとか)のせいで、立っていた方が楽だったので、「ライブですから立ってます」とわけのわからんことを言って固辞する。
ライブ前にメンバーの方がCDより粗いんですよ〜とおっしゃっていたが、わたしはCDより力と厚みを感じてよかったなあ。
「和」にこだわってのビジュアルとか、小道具のひちりきとか鈴がなかなか良かった。メンバーの方たちのお人柄もすごく温かくて。いろいろな面でよかった。曲の好みがつい、新月似にがいいなと思ってしまうのは仕方ないか。
ライブ後「泥酔日記」の作者の方に大事な伝言を伝えてほっとする。そう、この日記の名前をつけるときにわたしもいっそ「泥酔日記」にしようかと思ったのだが、水鏡のドラムの方の日本の名作「泥酔日記」というブログがすでに存在するため、断念して「着物日記」にしたのだった。



下の写真の母からもらった茶器等は、単なるインテリアである。裏千家をほんのさわりだけを教わっただけで、わたしは茶道のたしなみはない。去年から着付けを始めた友人と、今年から着付けを始めた友人はそれぞれお茶を習い始めたそうだ。ぐやぢー。着付けは先にわたしがはじめたのに〜。
母から続々と当時のメールが来る。
さて、同僚からのメール、電話。戦争が始まるらしい。とにかく休んで体力温存せよ。とのこと。回復したらわたしも戦線復帰だが、正義は勝つだろうか。勝たねばならないだろうが、ゼロか100だ・・・。
明日、天気は良いようだが、着物を一日中着る体力はないかも(;_:)。熱っぽい。頭が痛い。とはいえ、レストランは予約だしライブはチケット取っちゃったし、這っても行くぞ。ライブは友人も行くと言うので一緒に行くことにした。彼女は高田馬場BIGBOXの新月・美狂乱以来、25年ぶり、あ、わたしはシルエレの翌年ラフォーレ原宿の新月ライブに行ってるので24年ぶりの日本のプログレライブである。「水鏡」はCDよりライブがはるかに良いそうで、楽しみ。

それにしても、今から来月17日の「パーティ」の事考えるともう浮き足立って落ち着かない。体もつか。だから、今風邪ひいておいて良かったんだよ、うん。ほんとか〜。嬉しすぎて寝込みそうだあ。



花本さん推薦一生もんの本 骨董界のカリスマ坂田和實さん著書「ひとりよがりのものさし」 母から貰った棗と茶器と茶筅

某市の小さな博物館に勤務していた頃、上の写真の「新月」花本さんご推薦の『ひとりよがりのものさし』の冒頭にもあるいわゆる「ぼろ」の資料を扱ったことがある。わたしが扱ったのは全部のら着で、土の匂いが染み付いたそれらは、着ていた人の労働と生活の歴史で、どっしりとした重さになっていた。
たしか、どこかで開催された、「パッチワーク」展との同時企画の布をテーマにした展示のために何点かを貸し出しをした覚えがあり、その展示を見学に行ったが、こぎれいな現代の布を張り合わせた「作品」より、なんの加工も意匠もされていない、人が使い人が着たそのままの、のら着の方が美しかった。
そして、わたしが当時感じたことと、同じような事がこの本に書いてあって、わたしは嬉しかった。

わたしの手持ちの着物と羽織の殆どは母のすぐ下の妹である叔母からもらったもの、道行と道中着と帯は母のもの、帯締めは祖母が組んだもの、あとは祖母が残した反物を道中着に仕立ててもらったもの、母たちの親戚筋にあたるひとからいただいたというお召しの着物とろうけつ染めの羽織(非常に小柄で細い人だったそうで、わたし好みの真っ黒なお召しは短いので対丈でないと着ることができない、羽織はいずれ帯にしよう)や草履である。

知らない他人様が袖を通したリサイクル品にはやや抵抗があり、購入することは殆どないのだが、着物の上に着るコートならいいかと道行きを2枚買った。これは、母からもらった道行は地味なのと裄が長いわたしには少し短いせいもあり、どちらも新品だったのでとりあえずならいいかと下にも書いたピンクの道行きと紺地の道行きである。

母や叔母から着物や帯をもらえるのがすごく嬉しいのは、もちろん到底自分ではなかなか、買えないというのもあるが、血のつながった人たちからもらった絹を、身にまとうと、絹独特のひやりとした感触が、とたんにぬくもりに変るような気がするからで、ただの、布、ではない。人のぬくもりがそこにある。

むろん、自分のサイズで仕立ててもらった長襦袢、着物が一番しっくりくるのだが、↓にも書いたように、自分の長襦袢でも着物の方に拒絶されるものもあり、糸の一本、一本に生きながら煮られた蚕たちの怨念と、母や叔母や親戚筋の女性のわたしが良くしらない歴史が加味され、わたしへと受け継がれて来ており、叔母の長襦袢でないと、「着ることができない」着物もあり、単に着るもの、ではない別の力が働く、いきもののような気がするのが、着物、だと思う。

では、それがなんなのかはわたしにはわからない。
新月のについてこの曲の作者の花本さん自身が書いている文を引用させていただくが、
『日常と非日常、あるいは肉体をもったこの3D世界とそれ以外のすべての世界という風に幼稚に二分させていただくと、音楽をはじめとする芸術は、その両方を生きている自分の全体像を感覚的に取り戻すためのドラッグなのだと僕は思っています。』

「着物」は日本の誇る伝統工芸であり、「音楽をはじめとする芸術」の中のひとつである。では、花本さんが二分された世界の、両方を生きる自分の、全体像を感覚的に取り戻すためのドラッグが着物だとしたら、わたしは着物を着るたびに、肌から吸引しているのかもしれない。

「新月」だけではない、もうひとつのドラッグを。



母より怒りのメール。「益田鈍翁の事をメールで語るのは無理である。まずは本を読んで鈍翁について勉強してから質問せよ。」とのこと。こあいっ(^^;。 ち、祖父母と鈍翁さんのかかわりだけをつまみぐいしようとしていたのだが、甘かったらしい。下の方に載せた写真の帯はわたしの聞き間違いか、記憶違いで、鈍翁さんから直接いただいたものではなくて、お孫さんの画家の義信さんからいただいたものだそうだ。退院してきた叔母は、わたし良くおぼえてなーい、全部まとまったら読ませてね〜、とまったく頼りない^^;。あてにしてたのに〜。
オナカは治ったが熱っぽい。全く、いやになるなあ。美容院にも行かれず髪ぼーぼー。 でも、あさってはなんとか天気みたい。良かった。雨でもこうなったら二部式の雨コートを着るかあるいはあまりポリエステルは好きではないがポリエステルの着物で行こうかと決意していたところ。今年の春先、土砂降りだったけど「ダノイ・アルトリ」のお食事会でどうしても着物を着たくて黒の小紋を着ていった。着物の柄としては好きだし、母の繻子のピンクの金銀の帯が良くあって、ピンクの色半襟、これはリサイクルショップで買ったピンクの道行きとなかなか評判は良かったのだが、まだ秋だし、ちょっと季節感がなあと思っていたところ。
ポリは便利だのだが、着物だと、生き物でないものから作られた布はどうもしっくりこない。しかし太ったなあ。


母にもらった袋帯 帯締めは自分で買ったもの こういうかたっぽが何本かに別れている帯締めが好き

と、駅まで行ったはいいが、力尽きて、結局Uターン。家に着いたらグループのあんちゃんから「これでつぶれてないのはオレだけだから、うつすなよっ、会社くんなっ」という励ましの(^^;?電話くる。全員風邪以外にアキレス腱断裂した男の子やらお母さんが重病になってしまって説明待ちの男の子やら、グループ内めちゃくちゃでころんたがつぶれたのでほんとに一人だけがぴんぴんしてるのである。少し寝たが、頭と目が痛い。お腹に来ているのでおちおち寝ておられん。

結局、起きてパソコンをだらだらと開いているわたくし。風邪治さなければ。あ、何フタマンガーっ加工してんの。あ、おなかいた。目が痛い。アップしたりして。 ついでに先日練習した帯の写真載せてみたりして。母が自慢していたが、勇二郎さんに締めてみたら、確かに締めやすく、いい。う、頭いて〜。な〜にやっとるか。熱は微熱なので、ぼーっとしてるくらいでやっぱり眠ろうというほどではない。無理にでも会社行くべきだったか。でも悪化させたくないもんね。こんなことしてていいのか。しかし、とにかく風邪で会社やすむと勿体無いっ。

着物をくれた叔母からメール。当時のことがどんどん送られてきて、思わず涙ぐむ。益田鈍翁さんから祖母がもらった品々の中でたぶん唯一残ったものの中で帯をわたしが貰い受けたのと、ちょうど同じくらいに「白州正子自伝」で鈍翁さんの小田原の別荘の写真が載っていたのを見たのがきっかけで、母や叔母たちの記憶を正しく、まとめておこうと思って、三婆(自分たちで言っておるのだ。ころんたではないぞ)がメールを始めたのをきっかけに、あれこれ聞きはじめているが、聞いたことをいずれここかひとりごとにまとめようと思う。

祖母は益田鈍翁さんの家へ、女学校を出ると「行儀見習い」に行っていた。女学校出でなければなれなかったそうだ。この女学校の何期生であることが祖母の自慢で、叔母たちも(母は当時東京だったので違う学校)わたしもここの卒業生だが、わたしの通っていたころからどんどん偏差値は落ち、今はもう、この学校は統合されてしまって、無い。実にさびしい。
鈍翁さんの書生だった祖父と行儀見習いの祖母は結婚後も益田家の会社の仕事をしていたそうだ。いろいろ、時系列で教えてもらいたい。今もう一人の叔母が入院中なので、この叔母がメールをくれるとまた別の話が聞けるだろう。ううう、頭いたい〜、目がいたい〜。だから寝てれば良かったのに〜。



頭と目が痛い。頭はまた孫悟空のわっかみたい。参った。お腹に来ているので、やはり今の風邪か?ごはんたべられなくなったら困るやんけ。明け方はるたんが騒いで、また2度寝をしてしまい、気づいたら6時過ぎていた(;_:)。体調悪くて起きられなかったのもある。フレックスで1時間遅れて行こう。今、母や叔母たちから、昔のことを取材してる。やはりわたしの子供の記憶はあちこち間違ってることがわかる。しかし、楽しい。ちゃんと聞き終わったら、まとめよう。
しかし、土曜日雨かよ〜。してみると洋服か・・。つまんないなあ。昨日もおとといも、通勤の行き帰り、着物姿の人を見る。そうすると、ついストーカーの如く近寄ってしまうころんた。暖かいので、帯つきで颯爽と歩いていた年配の方の明るい水色の小紋も素敵だった。昨日はサビ色に木の葉の模様の道行きに黒味がかったピンクの鮫小紋のたぶんわたしと同年輩の人も衣文がきれいに抜けていて素敵だったなあ。
体調悪いながら、昨日もすごい嬉しいお知らせでコーフンして(そりゃ何が嬉しいのか部署の連中にはわかんないが)ミスしてしまいみんなで「隠せかくせ!」ともみ消す(^^;。あたまいて〜。うう、会社行かねば。あっ、王子様の書き込みが・・。


しまった!昨日から風邪をひいてしまう。なんか寒気がすると思ったら、喉が痛くて肩凝りがとにかくひどっく頭と目が痛い。とにかくビタミンC投入。土曜日でかけるために、治さなければ。今日はそういや「勤労感謝の日」これは「勤労が出来ることを感謝しなさいという日なんだよ」と上司のたまう。まあ、こういう日は電車が空いていてよい。
着付け仲間のいつも練習場をとってくれるコから連絡あり12月の練習日が決まる。
仕事の都合でずっと来られなかったおねえさまが今回来られそうで楽しみ。
ううう、あたまがじんじんする。なのに、なぜか豆のはいったごはんが食べたくなって、お赤飯なんか作ってしまった。おべんとにたくさん詰める。少し昼の外食を控えておべんとにしないと、かなりカロリーオーバーになってしまった。


週末は、ライブに行く。
しかし困った。昼間は友人と「銀座サヴァティーニ」でアフタヌーンランチをいただく約束をしている。ころんたははっきり言って、服は持っていない。ライブなら普段のGパンでいいのだろうが、レストランにそうはいかん。当然着物を着ていくのだが(とにかく、出かけるときはなるべく着物での決意もあり)、夜のライブで着物かあ。 としてみるとやはり紬。銀座なのでやわらかもので行きたいなと思っていたが(でもまだ不安があるか)朝から長時間だしこれは紬で行くしかあるまい。自分で買った紬はどちらかというと「春」なので、やはり叔母からもらった中で選ぼう。年寄りが悪目だちしないようにしないといけないが、とにかく「着よう!」というときにどんどん着て出ないと、また、着物を着るのに大騒ぎになってしまう。これは、「処分」と実家においてきてしまった古い小紋はやはり、やわらかもので家で過ごす稽古用にまだまだ使おう。来週、先日買ってしまった道行と帯を呉服屋さんに取りにいくついでに、引き取ることにしよう。
実は「日本の」プログレライブに行くこと自体新月以来25年ぶりなのでかなり楽しみ。


人間国宝 中村勇二郎さんの江戸小紋 「川端」まだ1度しか着てない

今日もやすみ。貴重な「何も用のない」やすみである。昨日泥酔したせいか今日は起きたら5時半だった。いつもと同じやんけ。やすみの日にねぼーすると勿体無いのである。
ファイルの整理はなんとか出来たが、今感想を書いている「新月日記」は襟を正して書きたいので、合間には書けない。

時間があるときに、手持ちの着物、それもまだちゃんと着られない「柔らかもの」を練習する。今まで「相性の悪い着物」と思っていた着物がある。うまく着ることが出来ないのである。いや、うまく着るもなにも、着ることが出来ないのだ。まず、長襦袢の上をすべってくれない。それでも四苦八苦して、なんとか着てから裾線を決めて、やっと腰紐(わたしはゴムでしか着ることができない)を締めようとしても、腰紐がどういうわけだか、手から離れる。これは着物との相性が悪いのだ。
と思い込んで、着てみること自体、イヤになっていた。
人間国宝の中村勇二郎さんの江戸小紋で、写真だとちゃんと見えないけど、美しい深い光沢のある緑色が気に入って買った着物である。確か歌舞伎座へ一度着ていったきり、着ていない。着ていったはいいが、しっくりこないまま、しまいこんでいた。
今日も着てみたが、やはり同じである。着物がわたしに着られるを嫌がっている。どうして腰紐が締められないのかも不思議だった。

しかし、はたと気づいた。この着物を作るとき、持っていた長襦袢で合わせていたのだが、この長襦袢自体がどうもしっくりこないのである。つまり、寸法だけは合っており、ピンクぼかしなので格は高いが、あまり良いものではないのを承知の長襦袢なのだ。
もしかしたら、と思い、行きつけ(と言っても母の、と言ったほうが正しい)の呉服屋さんで作ってもらった長襦袢を取り出して着てみた。とにかく、着ると肌に馴染み、ピンクぼかしではないので、普段着にも着られる。あまりに着易いので普段着にもちょくちょく着ていたら、店長さんに「勿体無いから、ちゃんとした着物の時に着てね」と言われた長襦袢である。
ちゃんとした着物とは、まさにこの江戸小紋ではないか。
この長襦袢に、勇二郎さんの江戸小紋を羽織ったその瞬間、驚くなかれ、着物が「喜んだ」のである。するっと長襦袢に吸い付くように着物の方からやってきた、と言ってもいい。

着物は、良くない長襦袢を嫌っていたのだ。本当に不思議だった。不思議な体験だった。格や品位の高いものは、同等の相手でなければならないのだった。勇二郎さんの着物は「良くない」相手を嫌ったのである。
実のところ、この江戸小紋も長襦袢も、むしろ廉価なものだった。欲のない勇二郎さんの着物と、たまたま、最後に一反だけ残ったこの長襦袢(確か5分の一くらいの値段だったと思う。お店の女の子が「わたし、同じもの定価で買ったんですよ〜」とうらめしそうに言われた)との相性が良かったのかもしれない。
で、では着付けの方はうまくいったかというと・・・それはそれで別のことなのだった。
そうそう甘くはない。おはしょりがきれいにいかなかったり、えりあわせはへたくそで、これは練習あるのみである。
叔母からもらった、細かい蝶の模様がびっしりと織られたウールの着物ですごす。この着物は、昨日着ていた絣模様のウールよりかなり大きく、だぶつく。叔母の体型の変化により、サイズが合うものと合わないものあり。
新●月live、科学の夜聞く。



さて、唐突に着物日記なるものをアップしてしまったが、別に着物のうんちくを述べられるわけではなく、まだ、やっとなんとか「一人で普段着程度が着られて勇気を出して外へ出る」段階なので、単に日記に名前つけたかったのが、今、新月とは別に大好きなことが着物、だということでこんな名前をつけた。

今まで、読んでくださった方がいたかどうか不明だが、ほとんどはけ口のごとく「日常生活垂れ流し日記」を書いてはアップしていたが、なんだかそれがイヤになってしまい、先日閉じることにした。
日記は新月日記があるし〜などと、まるで公共性無視の感覚だったが、やはり、新月は新月を読みに来られている方たちがいらっしゃるので、堅苦しくするつもりも、スタイルを変えるつもりもさらさらないが(泥酔して新月日記を書いちゃったり)、新月ファンは、ころんたとは無関係でたまたま新月ファンサイトを運営しているのが「ころんた」なだけで、わたしのことを書いてもWEB上の紙面が無駄なだけ、しかし、やはり自分の日記は書きたい、という事でこのファイルを作った。

思い出したり、かといって唐突にやっぱり「日常生活垂れ流し」を書きたくなることもあるので、日記とはいえ、日付を入れないでおく。「新月日記」に書かない新月のことを書きたくなることもあるので、日記のタイトルの着物、はあんまり意味ないと思うがまあ、仮に着物で検索してくださる方がいらしても、何の役にもたたないとすぐわかると思うのでまあいいか(相変わらずの無責任ぶり)。



休みだっ。5時に起きる。やすみの日のほうがなんでこうすんなり起きられるんだろう。 今日は一歩も外へ出るものかっ。用を済ませて、今日は着物すこし出して、とにかく前から整理したかった「新月」コーナーのファイルの整理をせねば。朝方先日のおさらいで、柔らか物をちょっと着てみる。やっぱりむずかしいなあ。叔母からもらった着物は紬が多く柔らか物はしゃれ紋がついた格の高いクリーム色の小紋(すごく気に入っている)と茶色の紅型と、芸者さんからもらったという粋な着物(これは到底わたしには着こなせない)。紅型はまだ地味だ。叔母の柔らか物の中で着られるのはクリームの小紋だけ。これに、母の秋の花を刺繍した豪華な9寸名古屋がすごく合う。
家で着るにはやはりウール。叔母の紺地の絣のウールの着物に母の紬のオレンジと黄色と黒の帯締めて、今日は一日過ごしてみよう。襦袢は「うそつき」だかららくちん。なるべく休みや出かけるときは着物ですごしたいと思う。時節柄、着物はあたたかい。新月、かなりあちこちめちゃくちゃになってる。お昼にやきそばをおかずにごはんをたべてしまいくるしい。眠くなってきた。めんどーなこと発見して、こうして、日記書いて逃避してるわたし。メールの返事はまだ緊張してかけないし。
しかし、そんなところへ、着物とは別だけど、腰が抜けるほど嬉しいお知らせ。
単なる日常垂れ流し日記を書いていたのだが、やんなってしまい閉じてしまい、こうして少なくとも、着物というモチーフに沿って日記書こうと思ったが、まあ、おなんじかあ。とりあえず、今日からアップするかな(11月20日)。新月すこーしだけ整理できた。久しぶりに、目いっぱいサイトをいじって嬉しい。昨年がいかに時間がありあまっていたかだ。でも、こうして、今年ついに発売になった新月のライブを聞きながら、こんなことができるんだもの。し・あ・わ・せっ。
新月日記を少し襟を正して書こうと決意したので、やはり逃げ口のこの日記、いいかも。ううう、しかし思ったほど全然終わらない〜。大事な方へのメールのお返事が、新月日記があっ。だからこうして逃避してるからだってば。
なんとか、新月日記のつづきを書く以外はファイル整備。メールも書いて、おそるおそる送信。
ほっとして、、ビール飲む。あんまり寝ていなかったので(ころんたは寝不足に弱い)ビール3本で泥酔。泥酔しつつメールのやりとりしてもおぐちゃぐちゃ。泥酔してピザまん一個食べて、お風呂に入って寝る。


おばの紅型の羽織と帯

浅草に行く。最近はもっぱら叔母の着物に母の帯、の組み合わせ。叔母の色大島を仕立て直し、叔母にもらった写真の羽織、母の紺地の紬にする。羽織紐はビーズにして、懐中時計に先日歌舞伎座で買った猫のちりめんの根付をつけたが切れてしまった。山吹色の帯揚げに、青とオレンジの帯締め。 羽織とおそろいの帯もあり、この帯はもう何度か締めたのだがいつもほめられてうれしい。 お昼食べるお店を決めていなかったので、みんなで歩いてうどん屋さんがやってる店で天どん食べる。く、くるしい。しかし、夕方渋谷のビストロ「コンコンブル」のテーブルについた途端、空腹に襲われる。最近、突如空腹の襲われる。秋よの。「コンコンブル」では食べた食べた。後から知った資料によると「人参、砂肝、パテ、生ハム、クロタンサラダ、イクラ、キッシュ、ローストチキン、スズキ、ポトフ、ハチノスのパン粉焼、仔羊グリエ、プリン、タルト、ソルベとスフレ、ポメリーのシャンパーニュ、ボルドーの赤ワイン、フランスビール、アサヒビール、オレンジジュース、コーヒー、紅茶、マール」だそうな。すご。



着付けの自主トレ。月に一回だけど、これが楽しい。紬はなんとかこのところ毎週恥じかきながらも着て出かけているのだが、柔らかものは今年の4月に着て以来練習もしていない。時間があったらヘンでもいいから着て出かけようと思ったのだが、時間切れでかついで行く。しかし、なんて着物って重いのだろう。みんなに聞きながら「そおだったのかあ!」と収穫あり嬉しい。袋帯のテがわかんなかったコも収穫あった!と喜んでいた。自分ひとりで練習してると永久にわかんないことが、みんなとやってるとお互いが知ってることを教えあって、納得いく。目からウロコが落ちたみたいだ。つまりはころんたはワキが甘い、ということが判明!これでなんとか「裾つぼまり」に着られるといいな。



通勤電車の中で白州正子自伝を読んでいたら益田鈍翁さんの小田原の別荘での記念写真が掲載されていて、思わず涙ぐみそうになる。この話はいずれまたきちんと書こう。
祖母が益田鈍翁さんにいただいた帯



歌舞伎座へ行く。こういう公共の場に着物を着ていくのは、9月30日の小田原城薪能以来で、なんとこのとき、見物終わって帰る時、帯締めを直したつもりが、歩いているうち、帯のタレが落ちてしまい、道端で友人に直してもらったという恐ろしい経験があるのだ。 友人と一緒の時だったから良かったが、一人だったらと思うと冷や汗が出た。
叔母の紺地に椿の花の飛び柄の少し格の高い紬に、母の赤地に竜や花が刺繍してある帯、叔母のピンクの鮫小紋の羽織に紐をビーズに変えて、帯揚げはちりめんの薄いオレンジと薄い緑、帯締めは片方が細く何本もわかれているもの。
片岡千之助さんデビューで、可愛かった。
しかし、能と歌舞伎どっちが好きかと言われたら困るが、もし、同じ日に歌舞伎と能とどちらかをとらねばならないと言われたら、わたしはまよわず能をとる。

もっとも、能はまだちゃんと能楽堂で見たことがあるわけではなくて、もっぱら薪能なのだが、初めて能を見たのがまだ中学生くらいの時、祖母に連れて行ってもらったのが最初の能体験である。わたしの父親世代は趣味に「謡」をやるのが流行っていたらしく、それに漏れず休日の日曜となると父が唸る?謡曲を聞きなれていたので音としてはすんなり入ることができたし、父が能をテレビで見ていたので綺麗な着物と動かないお芝居、程度の認識はあった。わたしから少し上くらいの世代の方はご存知かもしれないが、「少年少女世界の名作文学」という子供向けでありながら、ちゃんと大人用の翻訳に、ただルビがふってあるという、決して子供を侮っていない50巻シリーズの中の「日本編」ではちゃんと『熊野(ゆや)』とか『隅田川』が掲載されていたのだよ。なので、まったく馴染みのないものではなかったのだ。

ただ、生まれて初めて生で見る能は舞台から遠かったせいもあり、綺麗な衣裳も良くわからず、知っている物語でもなかったため、かろうじて狂言で笑ったものの、 あまり楽しい印象ではなかった。しかし、大人になってから、やはり薪能であったが、この時かなり舞台の前で見ることができ、始まってしばらくしてすぐに「これはロックだ!!」と確信したのである。静かにためて、ためて動きとは見えない動きの中の静かな秘めたエネルギーが、一気に噴出すその瞬間がたまらない。
今、ちょうど読み始めた「白州正子自伝」の中でも白州正子が能が好きで、ビートたけしが能を評した「あれは昔のロックコンサート」に同感と紹介していてうれしくなった。



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