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LIVE&RECORDSにそれぞれ関係者でもないのに、かなり自分でも恥ずかしいのですが、わたしの「ライブレポート」「アルバムレポート」が載っています。
先にこの2つを読んでくださった方や、新月TOPを読んで下さった方はご存知の事と思いますが、この2つは4年前の1999年に書かれたもので、現在のサイトとは全然違うサイト内に、とにかく新月の情報をただ得たい、という思いで書いたものです。

また、ここに書く内容は、先の2つのレポートに今年追加して書いたもの、また、「ころんたの新月日記」に書き散らしたもの、新月コンテンツからは外れますが「ころんたのぼんやりひとりごと」に書いたものをまとめたものですので、何度も内容が重複している部分もありますが、今年突然できた「新月」コンテンツについて、改めてわたしの新月への思いをまとめておきたくなりましたので、ご容赦ください。



7月という月はわたしにとってただの自分の誕生月にすぎなかった。しかし、ごく最近、7月は新月との出会い・再会の月だという、言い捨ててしまえば単なる偶然だが、わたしにとって実に不思議な意味合いを持つようになった。

「新月」を最初に知ったのはメジャーデビューの年1979年である。
大学四年生だったわたしは、FMで聞いてすぐにアルバムを買いに走り、「高田馬場BIG・BOX」「吉祥寺シルバーエレファント」「ラフォーレ原宿」の3つのライブを見て、その後新月は解散。
わたしは、日常瑣末時に追われて、雑誌を買うわけでもなく、レコード屋に足を運ぶわけでもラジオを聴くわけでもなく、新月のアルバムは思い出しては何度も聞いて、聞きすぎて、針飛びしてしまいレコードは擦り切れてしまったけれど、新月のメンバーがその後別のバンドに参加したことすら知らず、そんな情報は一切得ないまま年月は過ぎていった。

自分のサイトを持ちたいと思ったのが、4年前、1999年の春だった。
サイトを持ちたいといってもどうしたらいいかもわからず、ネットのことはネットで調べてみようと探すと、無料のHP作成教室がたくさんあって、とにかく、まずまっさきに書きたかった事をHTMLで書いてみた。
タグのこともわからなかったので、とにかく、サンプルのタグをはりつけて、それらしいページが一枚、出来上がった。それが今ある、「新月アルバムレポート」の「新月/新月」の部分で、わたしのサイト内に現存する最古の自分で作ったページだ(壁紙や色などは今の他のページに合わせて変えてある)。

そして、「新月/新月」、「科学の夜」、「赤い目の鏡」の3枚がまさか何年も前にCD化されているとは夢にも思わず、偶然検索したネットで「科学の夜」を購入、さらに本当に20年ぶりくらいに行った新宿ディスク・ユニオンで新月に再会した。1999年7月26日の事で、新月が芝ABCでライブをやった日、そして7月25日はアルバム発売の日で、まさにちょうど20年ぶりの再会だったのだ。
ページ内に「科学の夜」「赤い目の鏡」のレビューが加わった。

それからすぐに「新月ライブレポート」を書いてアップした(このページだけは当時のまま手を加えずに置いてある)。ライブのことだけではなく、「吉祥寺シルバーエレファント」でのライブの後で、新月ファンクラブ会長さんとお酒を飲んだことなども書いた。そして、当時、あのライブを見た人が、このページを見つけてわたしの記憶ちがいや、わたしが忘れていることなどをお互いに話ができたらいいな、などと思い、少しでも新月の情報が得られるのではないかと思ったのだ。
1999年7月のことだ。単純に自分の誕生月記念にサイトを作ったのにすぎない。
この1999年7月が新月デビューのちょうど20年後だったなどとは、全く意識していなかった。

インターネットに繋いですぐに、わたしが真っ先に探したのが「新月」について、そして「新月公式サイト」だったが、ほとんど新月についての情報は無く、では自分で新月のことを書けば、ネットの世界なのだから、すぐに解散後の新月の事やライブの事など、あっという間に情報が来ると思ったのだった。
新月以外には特にコンセプトもなくロックとも全然関係の無いサイト内の夜空に新月はぽつんと浮いていた。

そして、相変わらずネット上で、新月については何の情報もなかった。もっとも、ネットの事も良く知らずいろんな角度から検索すれば当時でも新月や、新月その後のメンバーの活動について書かれたサイトがいくつかあった事を後から知った。わたしの新月ページを見た、という人も一人も現れなかった。

その後、その時のサイトを閉じて、今あるこのサイトを立ち上げるため、少しづつロックや映画や日帰り旅のコーナーを作り、その前のサイトを閉じた。そして、このサイトをアップした。
新月については特に書き換えるわけでもなく、なんとなく最初に書いたまんま引っ越してきた。 そして新月について「ひとりごと」に大学時代の思い出と絡ませて、新月の音と、当時フールズメイトに掲載された新月メンバーのインタビューのコメントに感動したことを思い出し、新月について短い文を書いた。
2001年7月だった。

そのうち、ぽつ、ぽつとと新月で検索をしてわたしのサイトを見つけてくださった、若い世代の後追いファンの方たちからメールをいただいたり、貴重な資料をいただいたり、実際リアルタイムで新月のアナログを聞いた、という方とすこし親交があったり、ラフォーレ原宿のライブを見たという方とのサイトの行き来ができたりした。
新月の話題がほんの少し、わたしのサイトで表面に出てきていた。
でもまだ、新月が動いている実感はまったくなかった。

そしてある日突然、あのページに書かれている新月ファンクラブ会長の小熊一実さんからメールをいただいた。
何気なく新月で検索したページに、ご自分の事が書かれていて、驚いてメールをくださったのだ。 小熊さんも驚かれただろうが、わたしも本当に驚いた。

新月BOX計画が進んでいること、いまだに小熊さんと花本さん、北山さんは交流があること、津田さんとも連絡がとれたこと、などお聞きしその状況を掲載させていただくまでにいたった。
「ころんたの新月日記」で、BOX計画進捗状況をいただいたメールともども紹介しながら日記形式で伝えていくことにした。
この小熊さんにいただいたメールと新月BOX計画進捗を知らせる「ころんたの新月日記」が現在の新月コンテンツの元となる。
2003年、今年の7月の事だった。

小熊さんからのメールに書かれている、新月のメンバーが集まり、BOXに向かって動いている、新月に出会ってから24年、新月が再び動いている。
そんな進捗状況をいただいたり、さらにさらに、リーダーの花本彰さんがわたしのサイトを見たことあるらしいとお聞きしてビックリしたりしていたが、なにしろ現実に新月が再び動き出している事が本当にうれしかった。
そして、まさかその情報をわたしが直接受け取ることになるなんて夢にも思わなかった。 どんな些細な事でも新月の事を知りたい、そんな思いがこんな形で実現するなどと、予想だにしていなかった。

しかし、せっかくそんな情報をいただけるようになったのに、新月の事とは全く別に、ちょっとネットから離れたくなった。
そしてサイトを一旦閉めることとなった。
もちろん小熊さんにはサイトを再開し、新月BOX進捗状況について続けることを連絡しておいた。すこしづつ、サイトの引越しの準備をしながら、ネットから離れ、休んでいた。いい休養だった。

10月になっていた。そして忘れもしない10月2日、花本彰さんから直接メールをいただたいたのだ。
新月ファンなら私の驚きぶりをおわかりかと思うが、新月ファンにとって、花本彰は雲の上の人である。神様である。
確かに小熊さんからは、花本さんがわたしのサイトを見たことがあるとはお聞きしていたが、神様から直接メールが届くなど、誰が予想するだろうか。

穴のあくほど画面を眺め、何度も目をこすり確かめた。
確かに新月の花本彰と書いてある。
新月日記を読み返すと、その時の驚きぶりと舞い上がっている様子が書いてある。舞い上がらないわけがない。
しかし、BOX計画とリンクしてとにかく新しいことを何か試したい、という花本さんが わたしのサイトに貴重な原稿を掲載してくださるという提案に、ファンサイトとしてこれ以上の事があるだろうか。そしてそんな面白いことをさせてもらえるなんて、これ以上の幸せはない。異存があるわけがなく、わたしは花本さんの提案にやりましょうと答えた。
サイトを再開する時が来た。

この日から花本さんと相談しながら今ある新月のコーナーのタイトルを決めたり、原稿をアップしたりするいわば共同作業が始まった。
そして、今も更新を続けている「新月」コンテンツについては皆さんが時々アクセスし、読んでいただいている通りである。

当初の、「新月史」、「新月全曲目解説」、「一筆箋」、「Q&A」に加えてこの「LIVE&RECORDS」が増え、メンバーのみならず当時の関係者からの寄稿文も掲載させていただくことになり、新月がさらに24年を経て、再び当時の記憶を呼び覚まそうとしている。 新月史に書かれていることだけではない事実が、これから語られていくと思うと、24年の歳月が一気に埋まっていくような気がする。

日本のプログレ、とタイトルに冠しているが、実は私は新月以外の日本のプログレをまったく知らない。
もちろんマーキーの山崎さんのレポートにある新月以前の四人囃子やファーイーストはすごいと思い、何度か聞いている。マジカルパワー・マコもすごいと思った。グンジョーガ・クレヨン、なんてのも持っていたっけ(これはプログレか?)。

しかし、新月を知ってというか新月と同時にライブを見た美狂乱以外は、あとはまったく聞いていないのである。(美狂乱のアルバムも欲しかったのだったが、確かこのときはまだアルバムは出ていなかったはず。メジャーデビューは新月の方が早かった。美狂乱だけは今も聞いている。)聞いていないというとまた語弊があるが、新月解散後日本のプログレとして続々と売り出されたいくつかのバンドのアルバムも一通り買って聞いてみた。
しかし、いい悪い、好き嫌い、ではなく、とにかく新月を知ってしまったので、これらのバンドの音は自分が聞きたい音ではなかった。わたしの中では日本のプログレは新月でなけれならなかったのだ。
この時買ったアルバムは全部手放した。
当然アナログ盤。今にして思えば、別に手元に置いていても良かったのにと少し後悔しているが。

皆がおそらく「日本のプログレ」のくくりのなかでさまざまなバンドの音を体験し、あれはいい、これはここがいい、と音の枠を広げていくところを、わたしの中でそれはまったく排除され、ひたすらベクトルは新月にのみ、向いていた。

新月好き、といえばじゃあ他の日本のプログレバンドは・・と話を向けられてもとにかく聞いてない、知らない、ただ新月にだけ向いているエネルギー、この異常さ、熱が、今のこのサイトを作らせたと思う。
2枚の新月ページが4年の間じっとWEB上でただひたすら何かを待ち続けて、それが単に新月の情報を得るのではなくて、新月を動かすエネルギーにまでなったこと、それには、ひたすら新月にのみ向けられた、なんの音楽的知識もないのに、たぶん他のファンより強い何かが、もしかしたら、もともと新月を動かすために配されていたような気がごく最近してきた。

日本のプログレ・新月で1位ヒットするにも関わらず、今はまだアクセス数はわずかでしかないが、これからの動き、来年にかけての変化を楽しみたい。
何がきっかけかわからないけど、新月を元々知っているファンなのか、新月の名前を目にした誰かが新月ってなに?で来てくれているのかわからないけど、ちょっとずつ、増えたり去っていったり、リピーターになっていったりしている小さな変化が、大きく変るのか、ゆっくり見ていきたい。

新月側にたつ公式サイトではなくて(他の人からすれば呼び名なんかどうでもいいではないかと思うだろう。実際、役割はまったく公式サイトなのだから何が違うの、と。)、あくまで新月好き、の新月公認ファンサイトという立場にこだわったのは、わたしが運営を自由にするため、新月への賛美を平然と連呼するため(「パパと一緒に」の歌詞だけは除く)、なおかつ新月について自由に書くためで、わたしが顔から火が出そうな文章を堂々とメンバーの中に挟んでいることを認めてもらっていることが、公認、ということか。新月メンバーが直接書いている文へコメントつける勇気は蛮勇かもしれないが、ただ原稿をアップする事務的な処理を、新月に対してはしたくない。

原稿更新のスピードに、自分の更新部分のコメントが追いついていかないのが時間的に、はがゆいところだが、針とび承知で久しぶりに聞いてみたアナログ盤のぱちぱちという、そう、「鬼」の舞台の囲炉裏の炎がはぜる音にも似た、盤をこする独特の音とともに、CDとは違うややくぐもった音の楽曲を聞きながら、さらにベクトルは新月へと向けられたのを感じた。

そして、これからまだ語られる「新月史」だが、「新月始動」の部分で語られる 鬼の花本のエピソード 。なぜ第一期新月に北山さんも鈴木さんも名前がなかったのか前から不思議だったのだが、解説、で初めて知る。
学生バンドからの流れでの同じメンバーによる仲良しクラブではなかったのだ。
歴史にもし、はありえず、仮定からの視点で歴史を語るくらい愚かなことはなく、もちろんそれが構造的な問題や検証すべきことととは別で、起きてしまった事実は変えようがないのだが、あえて、もし、ここで鬼の花本がセレナーデを解散しなかったら。

津田さんとの出会いは、必然であり、もし、という仮定は書く必要も無い。
しかし、北山さんのすばらしさは最初からわかってはいたが不満があり、そして鈴木さんでなくてもベーシストは他にいると 思いながらセレナーデをつづけていたとしたら、 ここで書かれている世界に通用するプロフェッショナルなグループを作ろうと考えていた花本さんには、常にその不満がつきまとっていたわけだ。

いくつか鈴木さんのベースの素晴らしさが書かれている新月全曲目解説にあるように、鈴木さんだから高橋さんとの連携プレーが可能だったわけで、もし、そのまま続けていたら、もっと素晴らしいベーシストがいるはずだという幻想を抱き続けていたに違いない。

そしてボーカリストは、女性ボーカル(だとしたらわたしは新月を聞いていなかったと思う)、北山さん以外の男性ボーカル等さまざまなボーカリストを試みた上で、単に技術だけではない聴き手であるすべての人(これはきっと、送り手であるバンドのメンバーも聴き手の一人として)に訴える力がある人が、北山さんであると気づかなかったに違いない。

ここでは花本さん側からの新月史なので、いずれメンバーが語るこのセレナーデ解散時の各メンバーの心象については後日知る事になるのだろうが、ここでの鬼の花本(連呼しすぎ?)の決断は結果的に、いかに素晴らしい完璧なメンバーであるかを再認識した上で、 あの「新月」が完成されたわけだと思う。
水晶より冷たく磨かれた氷でできた完璧な玉のような新月が完成するために、この決断は絶対に間違っていなかった。

新月史、全曲目、一筆、Q&Aにそれぞれのメンバーの事が書かれており、その中に津田さんのすばらしさはもちろん、高橋さん、鈴木さん、北山さんのことが書かれているのだが、この新月史のエピソードを読んだ上で、北山さんを素晴らしいと表現する花本さんの解説、まなざしに、新月が新月であるためのボーカリストである北山真そのひとのひととなりを再認識し、その北山真への賞賛が、また花本彰のひととなりを浮き彫りにしそんなメンバーで構成されている「新月」に対しわたしは感動するのである。

24年を経て7月をキーワードにしての私と新月の出会いそして再会だが、新月のコーナーは10月26日に始まり、わずかまだ2ヶ月と少しを数えた間であるのにも関わらず、かなり充実した内容だと思う。
来年25年目の新月に向けてまだまだいろいろなことを試してみたい。また、これからメンバー以外の関係者の方たちからのどんなレポートが来るのか(これは花本さんの頭の中にあるみたいだけど)予想がつかない楽しみが広がる。

そして、新月が解散してしまってからもずっとずっとずっとずっと今までそしてこれからも思ってそして思うこと。
それは、この目でもう一度ライブを見たい。未発表音源を聞きたい。
この2つである。

最後に・・「ころんたの新月ライブレポート」だけは他のページとは違い、最初に作ったまま置いてある。
偶然目にしたこのページを見て、花本さんが「もう一回新月をやってみようと思った」から。
わたしにとって何にも替えがたいページなので・・・。

(2003.12.31)




25
 

 1979年はイラン・イスラム革命を契機に起こった第二次オイルショックの年だった。新月のデビューと活動は、ちょうどこの第二次オイルショックと並行していた。  そして、オイルショックによる不景気をひきずったまま、80年は始まった。

 第一次の時ほどパニックにこそならなかったが、人々は、まずは自分の靴のつま先を見るのが精一杯だったと思う。高度経済成長は終わりを遂げ、省エネが叫ばれ、何もかもが短くなっていった。
 電気を灯す時間が短くなり、スーツの袖も半そでになり、思考さえも、ゆっくりとまじめな顔で何かを考えると暗いと言われるから、急いで短く笑顔を作って明るいふりをして、自分の言葉でない事を言った。土の暖かい柔らかい感触を足うらから感じながら空を見上げる余裕はなく、足音高く紙くずを蹴散らしながら早足で歩かねばならなかった。
 音楽まで短くなった。そそくさと歩く人々のBGMにパンクはぴったりだった。音楽は、じっくりと聞くものではなく、脇をただ流れていくものになった。

 それまで、みんな、それぞれ好きな音楽を聴いていた。そして好きな音楽を明確に持っていた。クラシックだけをじっくりと聞く者、フォークソングを好きな者、ポップスを好きな者、ロックを好きな者。そしてわたしたちのように、ロックを好きな者の中でも、プログレを聞く者もいた。そして、それぞれ、干渉しあうことはないが、お互い、相手が好きな音楽を認知はしていた。そして豊かだった。

 だが、この前後、一見ジャンルの垣根を取り払ったかのごとく、ニューミュージックなるジャンルが成立し、みな、同じ音楽を聞いて、同じ会話をしなければならなくなった。それを聞かない少数派は、隠れキリシタンの如く、自分だけの音楽を誰に言うともなく聞いていた。

 「SNOW時代」で北山さんが"「新月」を発表した後の反応の鈍さ"と書かれている。 そして、"日本に少ないながら確実に居た熱狂的なファンの声を聞けていたら" と。
だが、街には、パンク、ニューミュージックがあふれていた。喫茶店で、デパートで、アウトレットの店で、同じような音楽ばかりが氾濫していた。

   新月を、誰もが聞かなかったのではない、聞けなかったのだ。この年、誰の耳も、せわしなく短く動く音をBGMにするしかなかったのだ。
 たまたま、運良く新月を知ることのできたわたしは、新月を聞くことができた。
 しかし、熱狂的なファンであるわたしも、時代の流れに沿わねば生きてはいかれない。 80年には社会に出なければいけなかった。自分のつま先を見ることが、先決になっていた。

 わたしは、今、リアルタイムで新月を支えている年齢は当時、中学生、高校生だった人たちではないかと、思っている。
リアルに新月を知る人たちなら、都内あるいは近郊に住んでいて、ライブハウスに足を運ぶ事が出来る環境、あるいは、ライブには行かれない地方在住だが、10代という柔らかな感性で新月を選び、そして、この第二次オイルショックがもたらす「不景気」という時代をさほど肌で感じる事無く、良質な音楽を生で聞く事が出来た世代。

 新月を見た3度目のライブ、ラフォーレ原宿は80年の4月。このライブに行かれたのは、学生気分をひきずっていたから、だったと思う。このライブを最後に、レコードは聞き続けながらも、そのうち2ndが出るだろう。そのうちまた、ライブがあったら行くだろう、程度で、音楽誌をぱらぱらと斜めに読んで、2ndのアルバムタイトルが「竹光る」に決まったことを知り、では出たら買おう、と思いながら日常瑣末時に埋没していった。
 そして、ある日、小さな小さな記事で知った「新月解散」の文字。ショックだった。ライブで聞いて大好きだった、1stに収められていなかった「殺意への船出パートU」「不意の旅立ち」を2度と聞くことが出来ないのだと、呆然としたが、ショックだったが、嘆き悲しむ余裕もないまま、再び日常瑣末時へと埋没していった。

 そして、デビューから25年、経った。  25年という年月は、長いだろうか、短いだろうか。わたしには、長さは関係なかったような気がする。昨年24年目の新月に出会えて、こうなったからそう感じるのだろうと言われてしまえばそれまでだが、これが歴史の必然、理であるのならば、わたしが差し伸べていた手を新月がつかんでくれた時が24年目だった。

 平凡に過ごしてきた一ファンに過ぎないわたしの24年、解散後、ミュージシャンを続け、映像作家になり、外食産業へとすすみ、フリークライミングの道を選んだ各新月メンバーの24年。接点があるなどと、夢にも思わなかった24年の歳月。
 たまたま、わたしが持っていた小さなコップから注いだ水が、どういうわけか地面にしみこんだままにならず、ちろちろと、細い流れとなり、メンバーの元へ届いた。そして、新月はその細い流れを小川にし、やがて大きなうねりを伴った大河へと姿を変えていくだろう。

 第二次オイルショックの時代背景とパンクの嵐の波、それを安易に新月解散の悲劇と結びつけるのは、あまり意味はない。なぜなら、それは、単にそこで、新月の活動が停止したにすぎない。解散宣言、など公式にされていない。北山さんも花本さんもいつだったか覚えてない池袋の居酒屋でどちらともなく?誰もそんなことは知らない。
 ただ、新月の動きはここで止まった。それは事実だ。でも、今年25年目の新月は、それが単に次の活動に入るまで、ただ、25年かかっただけだという事を、明示してくれた。

 今年、25年目の新月は、わたしを含む新月ファンにとって意義のある年だったのは、いまさらわたしが言うまでもない。ライブアルバムが発売され、新月関連のCDが再発され、イベントが行われ、メンバーのうち3人がファンの前に姿を現した。
 ソロアルバムの具体的な計画、そして、いよいよBOXの発売計画が具体的にメンバーから発表された。
 昨年、24年目の新月を書いたとき、わたしはまだ、BOXの事しか頭になかったと思う。 ただ、未発表の曲を再び聴く可能性のあるBOX発売。BOXが出ればそれがゴールのような気がしていた。そして5人揃っての「ライブ」は夢。
 しかし、それはとんでもない、間違いだった。大河は流れる、そして海へと自らを注ぎ、そこから再び大気へと姿を変え、地球を覆いつくすだろう。

 デビューアルバム発売、そしてデビューライブが行われた25年目の同月同日、新月メンバーが、5人、23年ぶりに一同に会したという。
 デビューアルバムから次の活動に入るまで、たまたま25年かかっただけの新月。再び5人が集まって、BOX製作は、新月の活動の一つに過ぎない。これから、新月の活動がまた始まるのだ。

 本当に数えるほどのごくわずかな方たちが、来てくださっていた昨年の今頃だが、今、日々、数十人の方たちが、入れ替わり、このサイトに来てくださっている。
 リアルタイムで新月を知っている方、後追いファンの方たち、そしてなんと言っても嬉しいのは、新月が誕生して何年も経ってから生まれた若いファンの方たちが、一緒に新月を聞いている。
 新月は伝説のバンドではない、世代、世紀を越えて活動するバンドなのだ。

 あと数時間で、25年目の新月の年が終わる。すごい、すごい年だった。多くの言葉は要らない。ただただ、すごい年だった。

 北山真、花本彰、津田治彦、鈴木清生、高橋直哉
 この5人が新月。新月はこの5人。
 2005年。この5人が、わたしの前に、揃う。

(2004.12.31)




26


 毎年、年末31日に書くことにしている新●月で、これで3年目だけど、今年は、書くこと、殆どないや。

 ・津田さんのソロアルバム「METAGAIA」が10月26日に発売になった。
 ・10月30日に新●月メンバー5人中4人が参加して、津田さんのソロライブが四谷Out Breakで行われた。
 ・新●月ボックスセット「「新●月●全●史」が12月16日に発売になった。

 ・・・おしまい。

 どんな偉業、でも、結果になってしまうと、ただの一言だ。
 新●月というバンドのボックスセットが発売された。
 一言で集約されるだけだ。

 不思議だなあ。「新●月●全●史」と名づけられた、この重い箱に詰められたCD5枚と、DVD一枚と、写真とメンバー自身の筆によるブックレット。
 2003年7月に新●月がボックスを製作すると聞いて2年半。ついに完成し、発売になったこのボックスだけど、ただただ、嬉しくて、他のみんなみたいに、泣きながら聴きました、なんていうのはなかった(ブックレットの高橋さんのコメントには泣かされてしまったけど)。

 だが、ここに至る過程、制作計画過程での音源蒐集作業中、芝ABCライブの良質の音源が発見され、昨年そのアルバムが発売になり、新録音まで行われることとなり、今年4月2日、オリジナルメンバー5人が全員そろい、録音が行われ・・・。

 このサイトを見てくださっていた方たちには、もう、わたしがいまさら語ることもないし、新しく来ていただいた方たちも、12月16日に、公式サイトの最新情報とバトンタッチした「新月ニュース」を見ていただければ、メンバー自身の肉声で、ボックス製作から、完成に至るまでが語られているので、これを読んでいただければ、ボックス完成直前の、津田さん、花本さんの緊迫した様子がわかると思う。

 補足だが、お二人とも、ご自分の仕事をしながら、アルゼンチンと日本で、花本さんと津田さんがなかなか繋がらないインターネットで連絡を取り合いながら、そして最後に再び花本さんが参加して、完成させた、お互い不眠不休のお二人の作業は、時間的、体力的にも、想像する以上に大変なものだったと思う。

 でも、そんなことも、全く知らない人たちが、たまたま店頭で、あれ?新月のボックスが出たんだ?と手にして購入して、見て聴いて、そこにあるのは、作品の評価だけであろう。

 そして、評価は・・・言うまでもない。みんな、感動してる、泣いてる、笑ってる、喜んでる、そして、26年の時を経て、新月は未だに、日本のプログレ界最高峰だと、誰もが確信した。

 多弁に過程を語ることはすでに無用だ。他でもない、6枚のディスクが、何より多弁にこれから新●月について、語り始めるだろう。

 今日は、ちょっとボックスから離れて、LIVE1979を聴いた。『鬼』のキーンコーンの後の、全員が一緒に音を出す、大音響を聴いた途端、涙が溢れて止まらなくなった。
 LIVE1979はもう何度も何度も聴いてるし、ボックスを聴いても、泣かなかったのに。
 ライブアルバムの、生身の新●月をそこに感じて、来年、紛れも無い新●月のライブが実現するんだと思うと、もうたまらなくなった。
 昨年の今日、書いた言葉がある。

 「北山真、花本彰、津田治彦、鈴木清生、高橋直哉
 この5人が新月。新月はこの5人。
 2005年。この5人が、わたしの前に、揃う。」

 良く読んだら、5人が音を出す、とは書いてないよね。
 だからね、26年前の「新月/新月」完成の時に行われなかった「新●月●全●史」完成の打ち上げが、12月26日に、行われて、音は出さないで、メンバーはお酒を飲んでいたけれど、5人がわたしの前に、揃ったので、昨年のこの言葉は実現したわけ。

 もちろん、これは来年の真の再活動へ向けての、集まりでもある。  今一度書く。   「北山真、花本彰、津田治彦、鈴木清生、高橋直哉
 この5人が新月。新月はこの5人。
 2006年。この5人が、26年ぶりに、わたしの前で、音を出す。」

新月BOX打ち上げ記念写真。5人揃ってます!

(2005.12.31)




27


今年は、もう、書かなくてもいいのかなって、思った。
4月8、9日の新●月復活コンサート「遠き星にて」。
この日の思い、詳しいことはライブレポートに書いたので、今更繰り返さないけど、4月6日のランスルーリハーサルを含めて、ついに新●月が再活動した事を目の当たりにした、あの夢のような、夢が叶った輝くような3日間、わたしは嬉しくて嬉しくて嬉しくて、ずっとずっとずっとずっと笑ってた。

夢、それは、未発表音源を聴きたい、そして26年前と同じ、新●月の5人が、わたしの目の前で揃って、新●月の曲を演奏すること。これが叶うこと。

昨年「新●月●全●史」が12月16日に発売になり、夢の一つが叶って、そして、ついに、「遠き星にて」で、もう一つの夢も叶った。
もともと、この「夢」を叶えるために、その力のほんの一部にでもなればって、2003年から、わたしの思いを一年の終わりに書き始めたこの「〜年目の新月」。
それで、その夢は叶ったから、新●月は、再活動したんだから、もうわたしの思いは、すべて新●月に託して、のんびり待ってればいいもん、もうわたしの役目は終わったから、現実にファンの前に、ステージに新●月は現れたから、だから、もう、わたしの思いなんか、もういらないんじゃないかな、って。

わたし、4月のコンサートでは泣かなかったの。ただただ、嬉しくて、へらへら、ずっと笑ってた。泣いてる人いっぱいいたけど、わたしは泣かなかった。
まけずぎらいだから、無理して泣かないつもりだったんじゃないのって、ちがうもん、再活動だもん。一度はあって当たり前だもん。ただ、嬉しいだけだもん。百年ぶりのデートだから嬉しすぎて、2晩とも眠れなかったけど、待ってて良かった、むかしより、カッコ悪かったら許せないって、思ったけど、とんでもない、当時より、もっともっと、カッコ良く、信じられなことにパワーアップして、わたしの前にいた。

でもでも、二度目のコンサートの時は、わかんない、二度目、それこそが、再活動、継続のあかしだから、絶対泣かないなんて自信はない。むしろ、たぶん、たぶんその時まで泣くのを、我慢しているのかもしれない(ほら、だからまけずぎらい)。
次のコンサートを見る事が、なにより、次の夢だもん。だから、今年も書いたの。それから、やっぱり、ずっとずっと書くの。いつも、新●月が見せてくれるのは次、だ。

新●月。
「北山真、花本彰、津田治彦、鈴木清生、高橋直哉」新●月はこの5人。
これが、新●月。

そして、わたしが思い続けた「新●月」は、わたしがかたちづくって、こうあってほしい新●月だったけど、それを夢見ていたけど、もう再活動を始めた新●月は、わたしの思い、わたしが思うかたちなど、はるかに凌駕した世界へといや宇宙へと、進もうとしているに違いない。
わたしが思い焦がれた新●月はすでに過去のもので、4月8、9以来、存在しないのではないかと思い始めてきた。

再活動を始めた新●月。わたしののぞみ、は叶えられてしまったので、これからおこるいっさいの事は、わたしの思惑をはるかに越えた世界で起こる。
新●月が、新月となって。
新月とは、単にバンドの名前ではないことを、これから迎える、もうわたしが予想しないことを見せてくれる世界で、それを確信するに違いない。

(2006.12.31)




28


今日、2007年12月31日。 毎年大晦日に書いてるこの日記ならぬ「年記」。
また、今年、が終わろうとしている。
そしていま、毎年この日に必ず綴ろうとしている、今年は28年目の新月を書こうとして、昨年の今日書いた、27年目の新●月を読み返して、愕然とした。

"わたしが思い焦がれた新●月はすでに過去のもので、4月8、9以来、存在しないのではないかと思い始めてきた。"
"新月とは、単にバンドの名前ではないことを、これから迎える、もうわたしが予想しないことを見せてくれる世界で、それを確信するに違いない。"

こんなことを書いていたなんて自分でも、気づかないで一年間すごしていた。
いま、あまりのことに茫然としている。

ねがいは叶う、それを信じてずっとやってきたけれど、今年、何がおこったか、そして、それが、どんなかたちで実現してしまったか。
これを読んでいる新月ファンの皆さんはすでにご承知のとおりだ。

今年の春、紙ジャケ再発のライナーで「新●月とは場の名称」と明言されたが、それ以前、「新●月●全●史」のブックレットに、その意味がきちんとあちこちに書いてある。
わたしは、それを無意識に、いやあるいは意識的に、じぶんのものとして、昨年のこの日の文章に使ったのだろう。
でも、それはあくまでも、「あの5人」が一丸となって、の場を想定してのことだったが、そう、それは、はからずも、自分が書いたとおり、まったくわたしが予想しないことを見せてくれる世界、に突入してしまった。
そして、それは当然ブックレットの、あの文章をふまえてのことだろう。
「かつて見たことのないものが書かれている絵」

すでにわたしは見ている。79年に書かれたこの絵を。
すなわち、それは、いまではすでに「見てしまった絵」であるということなのだろうか。
ただ、この絵は決して歴史的にも化学的にも物理的にもなんら外部の影響を受けることなく退色するどころか燦然と、しかし真昼空の下ではなく、しんとしたくらやみの中で、静かに冷たく光る鉱物的な輝きを保ちながら、掲げられていたため、飽きる事はなくいまも常にかつて見たことのないものが書かれている絵でありつづけている。

そして、この28年目のおわり近くになり、そう、ふたたびあの5人が、次の「かつて見たことのないものが書かれている絵」を書こうとしている。

おや、新月のメンバー編成の変化、なのに、なぜ、ふたたびあの5人なのか。
それは、ブックレットの新月の名について、思い出してほしい。
個人の集まり、に無理やり新月の名をつけているのだ。

この部分だけを抜き出し引用する事自体が、誤読であるのかもしれないが、個人の集まりである以上、すなわち新●月は場の名称であるのだから、すくなくとも、「この場」で、もっともつねに共に格闘していたこの5人が、たとえキャンバスは異なろうと、描くモチーフが変わろうと、使う絵具が異なろうと、「かつて見たことのないものが書かれている絵」を描こうとしていることには、全く間違いはあるまい。

昨年のコンサートで、泣かなくて良かった。笑っていて良かった。おおよそ新●月の名のもとで開催されるあらゆる場、公の場で、今後もわたしはぜったいに、泣かない。

新生新月、北山ソロ、それぞれ、新●月という場で、次のこたえ、を出してくるのだろう。
でも、それは、また次、への布石にすぎないはずだ。だから、いちいち、そのこたえに、泣いているひまはないのだ。

ああ、復活コンサート前にもこういったっけ。
前よりカッコ悪かったらゆるさない。
むじゃきでかわいいファンのころんたも、すこしすれてきたらしい。 29年目、が始まる。

(2008.12.31)




29


29年目。うまく言えない。日記で、すべて吐露してしまったので。あとは30年を待つのみ。緊張しすぎて、書けない。

(2008.12.31)




30


新月30周年の年が、終わろうとしている。わたしたちが知っている新月。あの5人だったはずの新月。それが変化してすでに3年を迎えた。場、には、表面的には変化はない。が、火山の胎動のごとく、地表にはみえず、渦巻く水中のごとく、水面にはさざなみさえ立たず、天空には煌く星と、そして、明日の1月1日に輝く満月にむけて、月のかたちが刻々とすがたを変えるのみ。それは、次の新月を迎えるために。30周年の終わり。それはまさしく、まったく新たな0周年がはじまったという事である。新しい、年のはじまり。

(2009.12.31)




31


今年初頭、新月公式サイトで、秋か冬、新たな録音物が発表されるとのアナウンスがあった。
その少し後、七枚目の「新月/新●月」SHM-CDとのことだが、
ただ、新生新●月が現れるまで、この「新月/新●月」を封印しようと思った。それから11ヶ月。そんな事は出来なかった。きっと次までずっとずっと、変らないものはなにもなく、すべては変りゆくんだろうな。

(2010.12.31)




32


今年という年ほど日本人である事を意識した年はない。わたしが書くまでもなく、3月11日という日は全ての日本人に刻み付けられている。
言葉をどう、選んだら良いのかわからない。
ひたすら亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。被災された方々に、ほんのわずかでも、何かのお役に立てるよう、自分が出来る範囲の事を実行するしかなく、申し訳ありません。

1979年という年は、新月ファンなら、新月がメジャーデビューした年と記憶している人も多いだろう。世界的には、ある大事故が起こっている。7月の新月デビューよりも早く、79年3月に起こったスリーマイル島原子力発電所事故である。
新月は79年に、オリジナルアルバムを発表し、翌80年4月のライブを最後に、長い沈黙に入った。メジャーデビュー25年後に再活動を開始。しかし再び沈黙に入った。そして、新月メンバーの変化が発表された。そして再び沈黙に入る。

2011年に入ってから、地球全体がざわいついている、わさわさしていると、花本さんはしきりにorionで発言していた。なんの事なのか、さっぱりわからないまま、3月1日になって、今月から、新月はリハーサルを始めると発表されて、11日目。あの未曾有の大震災が、起こってしまった。

新月の方向、新月が目指すもの。それをわたしは全く理解できてない。ただ、さまざまなロックシーンの中で、唯一、新月だけが、なぜだろう、わからないながら、ひょい、と、階段を作ってくれた気がする。

1979年、ファーストアルバムが発表され、2011年3月、新月は着手していたリハーサルを始める矢先であった。無理やり、この地球を震撼させた事故と新月を結びつけるつもりはない。ないが、この未曾有の事故によって引き起こされた、個々の意識を、今改めて考えたい。
そのシーンとなぜ新月が連動しているのだろうか。それが何かの意志によるものなのか、新月の無意識の意志によるものなのか、わからない。
大震災が起こる直前まで、公式サイトで、しきりに地球がざわついている、わさわさしているとの花本さんの発言があった。その直後、それが何であったか、新月ファンは知る事となる

正直、これで、わたしは新月が怖くて仕方なかった。新月が、繋がっている、何か巨大なものと、新月は繋がっている。そう考えると、新月がおそろしくて、仕方なかった。

でも。新月がその巨大ななにか、と、繋がっているとしたら、それがファンとして、何がおそろしいのだろう。新月は、バンドである。津田さんは、新月がある回路機構であるとしたら、それは機能しており、これからが本番であると1988年のライナーノーツで述べている。
新月はバンドである。新月が巨大な何かと繋がっているならば、音楽というスイッチを、それを聴く人々に押させるはずである。
メジャーデビュー33年を来年迎える新月が、果たして何を見せてくれるのか。セカンドアルバムまで33年かかったのではなく、33年が必要だったのだろう。今は、ただ、次のステージの、かつて書かれたことのない絵へと、思いを馳せる。

(2011.12.31)




33


新生新●月。春にその姿を現す。雑感はもろもろあれど、今はその出現に気持ちを馳せるのみ。新月。

(2012.12.31)




34


2003年から、毎年大晦日になると、この、日記ならぬ年記を書き続けてる。今年で丁度10年目となった。

10年前の今頃はまだこのサイトを訪れる人も少なかった。
それでも1999年に一枚だけ作った新月のページが4年経って、ようやくぽつぽつと新月ファンが訪れてきて、まだ大きく表面には出ないものの、新月復活に向けて、すさまじいエネルギーが磁場の中心のように渦巻いていたのを思い出す。
復活以降、10年の間に新月に起こった事は、今さらここに記する必要もない。
新月が復活した事は、それがただ1979年にただ一枚のオリジナルアルバムを発表して活動停止になってしまったバンドが四半世紀ぶりに活動再開をした、という一バンドの事象に留まらず、
前身バンドの再活動、当時それに関わっていたメンバー、関係者の再会、さらに、当時出会っていなかった才能と才能を持つメンバー同士の出会い等、すさまじい波動を引き起こした。

新月結成の黎明期、新月復活の黎明期、それぞれ歴史に起こった事だが、未来について言えば、新生新月の黎明期が今だ。
びりびりとした空気を感じる。
これが鬼か、新月か。
おそろしい空気を感じるが、もちろん、それは、いやな空気ではない。びりびりとしたそれに触れる勇気はないが、触れたくなる、でも触れられない、だって、新月は見えない。
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来年は新月がメジャーデビューして35年目を迎える。

34年前。

1979年初めて「新月/新●月」聴いてライブに三回行って、『鬼』のほかに曲名のわからない「あの曲」に魅せられて、次のライブ何時かと思って待っていたら、ある日、活動休止の囲み記事とセカンドアルバムのタイトルが年末に発売されるらしい「たけひかる」であることを知り、それを待っていたけど、音楽雑誌にそんな告知はでなくて、その後ある日新月解散の小さな囲み記事を読んだ時の茫然としたあのきもち。

それから、パソコンなどと言う物を、一般人が使うようになる日なんて想像もしないまま流れた年月、でも新月のLPはずっと聴いてて擦り切れてしまい、でも、いつかもう一度ライブを観たい、「あの曲」をもう一度聴きたい、そんな事を想っていて、また年月が流れた。

1998年の暮れにパソコンを買いネットに繋いで(知識もないのに当時まだ素人がやるには早すぎたISDNにしてしまい、コマンドを自分で打ち込まねばならず、それ打ち間違えてて買ってから一か月以上立ってやっと年が明けてから繋がってへとへとになった)真っ先に「新月公式サイト」検索したけどなくてしょんぼりした。これが1999年の事だった。

とりあえず自分のサイトを持ちたくて、にゃんこのはるちゃんたんちゃんのサイト作って、この中に当時おんなじライブを観たひとが居たらその時の話をしたい、というくらいのぼんやりした気持で新月のページ作った。
インターネット、ですぐに当時同じ場所や体験を共有した人から連絡があるものと思い込んでいた。

でも誰一人として、メールも書き込みをしてくれる人はいなかった。

それでもインターネットで検索したら「科学の夜」を売っている事がわかり、新月はまた活動しているんだ、と勘違いをしたけれど(ある意味勘違いではなかったと言えるが)、このアルバムを買う事が出来て、ここで初めて「あの曲」が『殺意への船出PART2』というタイトルだったことを知り、もしかしたらとディスクユニオンに行ってみたら「新月/新●月」がCDになっててさらに当時自分が行っていないライブのアルバム「赤い目の鏡」と両方売ってて舞いあがって、嬉しくて嬉しくて、ますます、いつかもう一度新月のライブを観たい、そうだあの時のセカンドアルバム「たけひかる」はどうなったんだろう、と思ってた。

四半世紀、25年経って、新月は本当に復活した。翌年夢にまで観た「新月のライブをもう一度観たい」が叶ってしまった。

あともうひとつ、新月のセカンドアルバムを聴きたい。
オリジナルメンバー北山真の名はそこにないのかもしれないが、これが来年、35年目で叶う。

新月前身バンドやメンバーの活動、果ては関係者に至るまでの再活動や再会を考えると、新月が再活動した事によって、それが全て動きだしたのだから、あらためて新月の「場」の力、影響力の凄さを感じる。
見上げても目には見えないが、人智を超えた、すさまじい、ちから。

さて、2014年の月齢新月は1月1日である。
まるで図ったみたいだ。あ、図ったのか。

34年目の新月がもうすぐ、終わる。
35年に向けて。

(2013.12.31)




35


35年目が終わろうとしている。36年目に向けて、ここで再び言ってしまおう。
あの5人が、再び目の前に立ちますように。

(2014.12.31)




36


(敬称略)
2015年が終わろうとしてる。
なぜか今新月「セレナーデ〜新月(スペシャルコレクション)科学の夜」を聴きたくて聴いている。アルバムの構成は新月前身バンドセレナーデと、新月の未収録曲すべてという前身バンドセレナーデプラス新月アルバムだ。このセレナーデ時代に『回帰〜パート2』という曲がある。
セレナーデ時代の花本彰の一人多重録音曲だが、今、新月を知っているファンには驚くべき曲だ。また『回帰』が再び収録されている ?と思いながら、聴いていると突然あのフレーズが、新月の代表曲のあのフレーズが流れてくる。
時間軸を今現在に据えているファンにとっては、一気にタイムマシンに乗って『鬼』の原点へと誘われたような瞬間だった。
この曲は新月ボックスセット「新●月●全●史」に収録されている。

新月の代表曲は『鬼』。だ。
新月と言えば『鬼』。唯一のオリジナルアルバム「新月/新●月」は未だに聴き継がれ、この代表曲『鬼』の名をさらに不滅の者としている。

だが、過去、この「セレナーデ〜新月(スペシャルコレクション)科学の夜」はじめ、1979年のライブを収録した「赤い目の鏡」、「新●月:Shingetsu Live 25.26 july 1979. ABC Kaikan Hall Tokyo」、そして「新●月●全●史」を聴いた人は、「新月/新●月」に収録されていない『鬼』以外の大曲が多くある事、小品やデモですら、その素晴らしさと圧倒的な存在感にただただ魅了されて来た。

ただ残念なのが、そのほとんどが限定盤であり、限られたリスナーにしかその素晴らしさが直接伝わっていなかった事である。これだけ音源はリリースされているのに新月が伝説のバンド、とされていたのは、そんな要因もあるのかもしれない。

ファンとしてこれはは悔しかった。特に『不意の旅立ち』は「赤い目の鏡」「新●月●全●史」でしか聴くことが出来ず、この超大作の存在が知られていなかったからだ。聴いてもらえさえすれば、どれほど素晴らしいか、新月ファン以外にもきっとわかってもらえるはずなのに。
しかし、この年末に来て「新●月●全●史」のDISC2、DISC3が新しい音と歌をオーバーダブし、1979年にこだわり単体発売されるという。そして芝ABCのデビューライブアルバムが完全版で発売されるという。

嬉しい。ただただ、ただただ、嬉しい。

ここでさらに嬉しいのは「新●月●全●史」のDISC2は、新月のセカンドアルバムに当たる事だ。それが遂に、36年経って完成する。1980年音楽誌の小さな記事に「セカンドアルバムのタイトルはたけひかる」と伝えられたきり、その発売を見ることもなく、いつしか新月は伝説のバンドになってしまった。
しかし、新月メジャーデビューから四半世紀の年新月は再活動開始。「新●月:Shingetsu Live 25.26 july 1979. ABC Kaikan Hall Tokyo」「新●月●全●史」をリリースし、再結成ライブも行った。誰しもこのまま活動が継続すると思っていたところに、ボーカル北山真のまさかの離脱にファンは驚愕した。
その後北山真は「真○月(のち真○日と改名)」を結成してライブを行う。一方新月メンバーは「新●月プロジェクト」というユニットで新月曲をライブで継続しつつ、新たな曲、新たな活動で場をひろげている。
それがどこまで広がるのか、待つ。

(2015.12.31)




37


「遠き星より」を聴きながら、今年一番嬉しかった事が本当に実現したんだ、ってひしひし。ついにセカンドアルバムを聴く事が出来たよろこびにひたってる。もう、なにも言う事はない。だから、次、次だ。

(2016.12.31)


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