「THEATRICAL」 津田治彦、花本彰インタビュー(1994年「MARQUEE 第56号」より転載)
インタビュー:中島俊也(敬称略)



 【新月:ミニ・バイオグラフィー】
 1976年暮、新月結成。’77年夏、渋谷屋根裏にてデビュー・ライヴ。'78年、北山真(Vo)、鈴木清生(B)が加入し、津田治彦(G)、花本彰(Key)、高橋直哉(Dr)、遠山豊(G,Key)でメンバーが固まる。遠山はレコーディング直前にマネージャーに転向。
 '79年4〜5月、箱根ロックウェルスタジオにて1stのレコーディング。同年7月25日、26日の両日芝ABCホールにて、記念ライヴ。以降、ライヴではサポートして小久保隆(Key)、津田裕子(Key)らが参加していた。
 '79年12月14日、ビクター・ミュージック・プラザでのイベントに美狂乱と共に出演後、彼らのプロダクションが経営不振により倒産。
 '80年春のライヴを最後に解散。花本と津田はフォノジェニックスを結成、以後アストゥーリアスへ参加。
 北山はソロ・カセットを発表した後、音楽活動をストップ。以後表だった活動はないが、現在も音楽活動への意欲は失われていない。(ヌメロ・ウエノ著「ヒストリー・オブ・ジャップス・プログレッシヴ・ロック」より抜粋。

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 新月のライヴ・アルバムが出る。しかも1stアルバムも再発される。音はまず、聴いてもらうしかないが、今回特に津田治彦と、花本彰の両氏に話しを聞くことが出来た。
 伝説に終わらせない為にも、今、新月が我々に与えてくれるものも模索してみたい。
 お忙しい中、時間を取っていただいた両氏に深く感謝します('94年8月2日。フォノジェニックス・スタジオにて)

 新月は、'79年にビクターからアルバムを出した。今思えば、これはとんでもなく凄いことだし、大きな意味を持っている。
 一方で塩次氏というスポンサーとの出会いという幸運があったのも事実だが、彼らを支えたスタッフの思い入れの深さは音楽性、人間性の力なくして、得ることは出来なかったはずだ。
 ミキサー(P.A)、照明等もすべて新月選任のスタッフが存在し、当時で一千万という金をかけて箱根で録音し、プロモ・ビデオも製作し・・・という信じられない状況は、正直いって恵まれ過ぎたバンドという感じがする。
ライヴ活動やスタジオ・ワークにおいて、ここまでやれたプログレ・バンドは前代未聞、空前絶後だ。とは言え、音楽に対する真摯な姿勢と苦闘なくして、運は開けない。

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新月生誕

 翻って新月結成に話は遡る。青山学院大学に入学した津田治彦は、ドラマーの高橋直哉と出会いベラドンナを結成。高校時代からの友人がキーボードを担当していたHALにも参加。HALは、インプロとストラヴィンスキーを合体させたかのような特殊なバンドであり、ベラドンナはもう少し、ブリティッシュ・ジャズ・ロック寄りの音だった。
 一方、花本彰は日大芸術学部作曲科に入学。当初ギタリストだったが、軽音楽部に入ってみると、ギタリストばかり。
 大学入学の為にピアノが弾けてしまった為。バンドをキーボードを担当し始める。津田の幼ななじみの和田氏と知り合い、セレナーデの母体となる。

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津田治彦:ジョン・ハイズマンとかニュークリアスとか好きでしたね。ホールズワースが出てきたときはショックだったね。早弾きとか・・・。青学って割とプロで頑張っている人多いでしょ。サザンの桑田君を筆頭に。桑田君は学食に行くとよくスミでメシ食ってて、なんだこいつ(笑)とか思っていたけど。

花本彰:セレナーデは・・北山と僕とベースの鈴木君かな、新月に参加したのは。和田と組んでから、池袋のヤマハに出した張り紙を見て、北山が来たんですよ。
和田と僕は当時の所謂プログレが感覚的に好きでね。
和田が持ってたYESの「危機」を聴いて、こりゃええわい、と知識もノウハウも無いのに始めたんですね。
北山はフォーク系・・・ボブ・ディランとか、作詩もずっとしていたから。もう一方で、フランス的なものとか、幅広いものを持っていたので、それで音楽性が広がって。

中島:曲調とかは?
花本:もろプログレですね。なんというか・・・フォーク・プログレ。非常に情緒的であって"殺意への船出"はパートTとパートUがありまして、パートTをやっていたのがセレナーデ。
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キャバレー

 中島:新月というバンド名なんですが。

 花本:向こうの言葉でカッコイイのを付けてもつまんないな、というのはあったし。月というのは精神を落ち着かせたりとか、逆に覚醒させたりという効用があって・・・・・・その頃は太陽よりは月というか、月の志向みたいのはあって。好みの問題で。特に回りでは、熱狂させる為の音楽とか流行りだったんで、それを冷まさせる、温度を下げようと。

中島:新月が目指した所っていうのはそういう・・・

花本:実をいうと、そこまで考えていなかったけど(笑)。自分達にとって気持ちいい音っていうのがそういう音で。たまたまプログレっているカテゴリーに好きな音が多くて。コピーをやろうっていうのは無かったし。

中島:プロフェッショナルな感じで新月というバンドを考えていた?

花本:そうですね。何かをやりながらというのは無くて。音楽に全てを捧げる、というとオーバーですけど、衣食住は2次的なもので。当時はバンドという形態で、仕事もしていたから、そんなに経済的に困ったというのも無かったし。

津田:新月でキャバレーとか出てたりしたんですよ。

中島:ハコバンドというやつ?

津田:ウケまくりだよね(笑)

花本:セレナーデの時代はビアガーデンで"21世紀の精神異常者"をやったし。オヤジからクレームがついて2度と呼ばれなかったりとか。
新月の曲はほとんどがキャバレーの休憩時間に出来たんですね。新月としてお金を稼ぐとかじゃなくて、とにかく音楽をやるんだ、というのがありました。
そういう意味ではプロじゃないのかもしれないけれど・・・ひとつ恵まれていたのは、プロデューサーの塩次さんが、気に入ってくれて、トントン拍子にいったっていうか。

津田:俺達のひとつ前の世代にクロニクル、というバンドがあったじゃない。あれをプロデュースしてたよね。
'75年頃渋谷に「J」というスタジオがあって、今で言うハーフトーン関係が出入りしていた所で・・・竹内まりやとか、館ひろしのクールスとかも来てたな。
割とジェネシスとかが好きで気に入ってくれて。

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バンドとして固まった新月は、成増の自家製スタジオや「J」で猛練習を繰り返す。
曲作りとアレンジは不可分となり、楽曲が生まれ、ライヴ活動がスタートする。
5日練習して1日ライブ、1日休み、といったペースで一年間以上活動が続く。単体のバンドとして、この驚異的なペースでのライブは現在では、考えられないことだ。それだけアイディアがあり、ライヴ・ハウスにも認められる実力があったということ。それは恐ろしく凝縮された期間だったと考えるしかない。
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中島:1stが出た頃はどんな状況でしたか?

花本:バンドの寿命が10とすると、2とか3とか、一番いい頃だったんじゃないかな。何でも出始めの頃が一番面白いじゃないですか。本人達も何がなんだかわからずにやってて。

津田:お互い考え抜くしね。「宿題」とかいって。リハの数が凄かったからね。どうやって食っていたのか(笑)。すごいシリアスだった。普通のバンドみたいに酒飲んだりとかしなかったし、修行僧のような。
好きだったんだよね、あれが。

劇団的新月

中島:今回ライヴCDもリリースされるわけですが、当時ヴィジュアルという点は意識していましたか?

花本:そうですね。演劇的な音楽・・・それは北山に負うところが大きい。彼はインカ帝国という劇団に音楽で参加していて、その劇団には僕たちも参加したことたあって。
それを新月の次のアルバムに入れようという話もチラッとあったぐらいで。
中々新月的な劇団でしたね。
劇団的新月・・・なんだかな(笑)。マイナーな劇団だったから、池袋のシアター・グリーンとかでやってた。

津田:それで、使った道具をこっちで借りたりとか。

花本:役者さんを2,3人借りて寸劇みたいのやったり。

津田:演出は毎回変るからね。最後の方で決まっていたのは"鬼"で横笛を吹くマネをするとか・・・。

花本:"鬼"以外では余りなかったな。ヴォーカリストにとって、自由に出来る長さの曲は少なかったから。曲に合わせて衣裳を変えたり、電話、棺桶、竹垣・・・。

中島:三面マルチスクリーンとか。

津田:あれは、ABCだけですね。デカイから。たまたま近くにそのシステム持っている人がいて、カメラマンもいたので実現した。映像は・・・こっちは見れないから(笑)。
"鬼"は使ってたよね。"冷凍"とか寒い系の曲で・・・写真の素材の関係でね、雪山の映像とかね。

花本:"鬼"とか寸劇的なものを入れ易かったので、どうしても、そういう演出も日本的なものになっちゃう。

津田:気が付くと、劇団の人が勝手に出てたり(笑)。

中島:客層とかは?

津田:女の子が3〜4割ぐらいかな。最前列にマニアックな男性がじっと見てて。
女の子はプログレがどうのという感じでもなかったよね。

中島:反応とかどうでした?

花本:ア然とされましたね。

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 演劇とロックの融合、といえば、唯一無比の演劇集団、天井桟敷を出さないわけにはいかない。
 その凄絶なる存在感、日本の血と因習の向こうにロックがあって、せめぎ合う、寺山修司とJ.Aシーザーが送り出した世界は、演劇という既成の認識には当然ながら収まっていない。
 「収まらない」ものが我々の嗅覚を最も刺激する。
ならば、劇、映像といったものを積極的に採り入れた新月という運動体は、その地平に到達する可能性があった。
 ボーダーは確実に無くなりつつ有るのだろうが、少なくともバンド形態から突破していこうとする存在は最近見当たらない。つまり空き家だ。
 演劇、劇場という認識の変化した先・・・インタラクティヴとか、そういう所でもいい。
 別に新月のマネをしろとか、そういう事では無いので、誤解なきよう。
 音楽のみで語るバンドも無論あっていい、というかそれが基本だが、切り落としてきた「余計なもの」の価値を考え直してみるのも一興。
 空き家探しも必要である。
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中島:歌詩についてなんですが・・・

津田:"鬼"とかは花本だよね。あの歌詩は東京に住んでいたら出ない。

花本:広島の尾道の向かいの島に住んでたんです。キャバレーに出ていた頃、ある日突然胸が痛み出しまして、肺のまわりに穴が開く病気で・・・。

津田:それで確か、一週間くらい尾道に帰って入院して。
皆が「ヒマなんだから曲くらい書いてこいよ」って。それで花本が書いてきたのが"不意の旅立ち"とかだよ。

中島:大正〜昭和のイメージがありますが。

花本:あまり時間軸では考えていなかったけど、感情的な周波数は、大正ロマンとか、あるのかもしれないですね。

津田:それって、今考えてみれば、俺らの世代のガキの頃って、そういう雰囲気ってある程度残っていたじゃないですか。
花本は広島だったし・・・東京ですらあったからね。
それが無意識に出たんじゃないかな。

花本:彼(津田)がオカルト家族なんですよ。昔からね。キャバレーでルドルフ・シュタイナーの本を見せてもらったり(笑)した関係で、今の現実・・・日常の世界でない部分との境界線を行ったり来たりする、という点は意識がありましたね。

津田:向こうに行ききったりとか。

花本:彼は行ききっちゃう。

幻の2nd、そして今後

 1stアルバムの録音時、アルバムのまとまりを考えて除いた曲が、かなりの数存在していた。それら("殺意への船出""赤い目の鏡"など)を中心に、2ndの構想は既にあったが・・・音楽に全身全霊を傾けた者が、作品を出せない、となった時のショックは想像するに余りある。
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中島:2ndが中止になったのは。

津田:要するに金だよね。一枚目でかなり使っちゃったから、採算とれずに、やってるうちに親会社がツブれてしまって。ウチが潰したという話もあるけれども。

花本:現実的に1stの五分の一の予算を提示されてしまっては・・・これでは出来ませんね、という話になって。現実的に不可能だから、サバサバせざるを得ない。
形となるものを出すからには、納得のいくものを、というのもあったし。

中島:その後、自然消滅というか、解散・・・。

津田:しょうがないといえばそうかな。くやしくはあったけど・・・。

花本:パンク・ブームというのもあったし。

中島:新月という存在は大きかったですか?

花本:音楽的な経験でいうと、大きかった。やろうとしていたこと、新月全体のムードが醸し出しているもの。それらはまだ有効だし、今の、次の世代に合う、インターフェイスを付けてあげれば・・・それは全く過去のものではなくて、今もこの宇宙には流れているものだし。音楽としては死んでいない。

津田:そういう意味じゃ面白いよね、今でも。

中島:今、一番関心があるのは?

花本:今は映像の方へ行っちゃってるんで、音楽については時間が無いんです。

津田:もしやるとしたら〜風という表現は出来ないよね。手法的には今のガブリエルがやってることととか、テクノロジーとの融合の手法はいっぱい使いたいよね。 個人的にはエスニックなものって興味あるけど。中近東とか。

中島:今後作品を発表することは?

花本:そろそろね。昔の要素はなぞる部分となぞらない部分があるだろうね。先程言った、インターフェイスの関係で、やっぱりコンピュータは通さなきゃいけない。
ヴォイスはきっと入りますね。
アコースティック・ギターも・・・きっと・・・。

津田:そうすか(笑)。耳が痛いな。

花本:北山が入るかもしれない。

中島:それは・・・新月じゃないですか(笑)。
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 メジャー/マイナーという図式が定着してかれこれ10年以上。売れる/売れないという価値観を超えて、"本当にやりたい事をやり抜く"強さが、どこまで現在のマイナーシーン(あるいはメジャーシーン)に有るのか、極言は出来ないが、「音楽にすべてを捧げ」た人々が現実に存在する事も確かだ。
 新月が幸運だったのは、そこにたまたまお金を出してくれる理解者がおり、彼らを支えるスタッフ、友人に恵まれたこと、結果的に2ndが制作出来なかったとはいえ、1stに至るまでの過程を考えれば、運、不運で片付けられるワケが無い。
 「全てを捧げ」た新月の姿は、今も一部の人々に重ねることが出来る。
 音楽の形以前のもの、それはバンドの姿勢、ひいては個人の姿勢にかかわること、これをもう一度肝に銘じたい。
 テクノロジーは支配するもので、されるものでは無い、ということ。自然に出てくるものが、まずは問われるということ。そんな当然だが、忘れかけた真理をもう一度思い出す意味でも、新月という存在は残された音楽と同等のヒントを数多く与えてくれる。
 新たに姿を現すであろう両氏の音楽が、どのようになるか、楽しみに待っていたい。
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「新月/赤い目の鏡」
 新月には難解さがカケラもない。それは歌詩にも、曲にもいえることだ。実にさり気なく、心の奥底に忍び寄っては、離さない感情があり、風景がある。
 もはや消え去った"昭和"という感覚。
 ここに新月の魅力があって、多くの人々の間で別格視されることになる。
  普遍的ノスタルジーと個人的な思い出を呼び起こし、ごく自然に自分なりの日本に行くことが出来る。思いを託す、入れ込む余地を残しながら、音楽的に完成されたバンドはそうあるものではない。
 そうした"託した"人々の夢がこうして形になった。
 1979年7月、東京芝ABCホール。"鬼""白唇""科学の夜"・・・初めて聞いた時のことを思さずにはいられない。
 音は薄くとも、逆に音楽の本質、一音、一音の必然性と魅力に気付く。
 曲間のSEは、否が応にもシアトリカルなステージングへの想像力を刺激する。
 さらにはアルバム未収録4曲収録という大きなプレゼントもある。特に永年のファンには、感慨もひとしおだろう。曲調は違えども、個々の魅力は既発曲にひけをとらない。
 我々は日常の向こうを見、波止場へ行き、御伽の国に遊び、遠い星を想うのである。
 音質、演奏、共にベストではないかもしれない。
 しかし、これが始まりなのだ。結論ではなく、再び語り継がれる物語の。
 新たな客人達を迎え入れて、この繊細な世界は生き続ける。最後に一言。
 彼らは日本のルネッサンスである!!(中島)
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「新月/新月」
 当時としては、やるべきことはやった。今聞くと、Voの音程がちょっと・・・とかあるけど、ベストを尽くしたよね。皆んな集中したし、悔いはないですよ。
 "鬼"と"科学の夜"はギタリストとしては相当入れ込みました。テイク数もムチャクチャ多かったし。  テクノロジー的には最先端のものが使えました。アルバムの構成、歌詩の流れにはかなりこだわったね。一番こだわっていたのは北山じゃない?
 録音は、時間とお金がかかったよね。24トラックで1つのトラックに5つくらい音が入っていたり、"白唇"のベーシック録るのに3日とかさ。
 何十テイクも録って。デジタル・リバーブとか無かった時代だし・・・ベストを尽くしたよね(津田治彦:談)

 持っていたイメージより整理されちゃってるというか、雑音の部分が無いというか。
 音質を超えて伝わってくる情報が淘汰されて、曲の為の演奏、という風になっちゃったかな、と。逆に聞き易くなったというメリットはあるけれども。
 当初考えていたものとのギャップはありましたけれど、皆んなよくがんばったなとは思います。
 やはり"鬼"、好き嫌いじゃなくて、皆が感じてくれるものが多いというのは、自然に出てきたからじゃないかな。情緒的な部分で影響を及ぼすメロディーとか、日常とその底辺に流れる意識の関係とかは意識してた。
 日常とは違うレベルの周波数のもの・・・。(花本彰:談)
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