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不定期連載『セレナーデの頃』

高津昌之(シンガーソングライター・ギタリスト/元セレナーデ)

その1:「セレナーデ」VS「新月」

 私の、「新月」に対するスタンスをはっきりさせておくため にも、最初に述べておきたいことがある。私は「新月」が好き である。しかしそれ以上に「セレナーデ」を愛している。もち ろん、身びいきということもある。しかし「セレナーデ」にあ って「新月」にないものだってあるのだっ(自信満々!)。「新 月」の前身バンドと一言で片付けられることが多いが、「セレ ナーデ」は決して「新月」のサナギにすぎなかったわけではな いぞっ(かなり強気!!)とはいっても「新月」は「セレナーデ」 の進化した一形態と言え、及ばない所があるのも確かで(弱気) 、結果的にこれだけメンバーの重複があるのであれば、自ずと その違いはギタリストとドラマーに由来することとなる。つま り… 私高津は山形県、「セレナーデ」のドラマー小松は福島 県、と共に東北出身者である。対して津田クン、高橋クンは共 に東京育ちで、この差は大きく音に表れている。

 持論を述べさせてもらうと雪国出身者は程度の差こそあれ、 常に暖かさに対する憧れがあり、極端に言えば「暖炉」「炬燵 」「鍋料理」といった言葉に異常に反応してしまうのだ(ホン トかあ?)。「洗練」「クール」「先鋭」を身上とする都市圏出 身者とは対極的な特性を持つ彼らを私は囲炉裏派と名づけてい る。(これが段々南へ行くとまた温かさが入るんだなあ、ニュ アンスは違うけど) 。それはセレナーデの「回帰」と新月の「   」を聴き比べれば明瞭である…と書こうとしてはたと困っ てしまった。新月の何と比べればいいんだろう? 津田色が特 に出ていると言えば「朝の向う側」だがあれは新月というより シンガー・ソングライターの津田クンそのものだ。「白唇」は95 パーセントが花本クンのアレンジだろう…となると…ギターワ ークにおいては「科学の夜」か。「赤い目の鏡」? ウ〜ン…

  と尻切れトンボで終わったところで次回は「セレナーデ加入の 頃」「グループ名が決まるまで」を中心にお送りします。
(第1話完)



その2:「セレナーデ加入」

 1975年3月、よく晴れた日の午後、私は青梅線・牛浜駅のホ ームに降り立った。文京区江戸川橋のアパートから2時間半も かけて、遠路はるばるとあるグループのオーディションにやっ てきたのだった。青梅線の電車に乗るのは初めてで、床が木だ ったのにもビックリしたが、車内の真ん中に直径5、6センチほ どもある金属の円柱が立っていたのにもっとビックリした。何 かすごい所に来てしまったぞ…と思いつつも、これから会う連 中との事で、心は半ば浮き立ち、半ば緊張していた。

 駅から電話をして大まかな道行きを聞き、一本道を6〜7分歩 いてゆくと向こうからもそれらしき3人が迎えに歩いてくるの が見えた。一人は長身、親切にもすぐ僕のギターケース(レス ポールが入ったハードケースで、結構重い)を持ってくれ(清生 だった)、一人は小柄でこれも性格はまあ人並みそう(小松)、 もう一人がメガネをかけたしかつめらしい顔の大柄な男で、ど うやらこれがウワサの花本、という男らしかった。

 ウワサの…というのは、実は半年ほど前に一緒にバンドをや りかけた山田某というシンガー・コンポーザーに「福生に花本 というすごい才能の持ち主がいる。オレのライバルだ」と聞か されていたからである。山田某は性格はともあれ、無視できな い才能を持ち合わせた男だったので、数か月後に池袋ヤマハに て“R・フリップ、S・ハウのようなギタリスト募集。連絡は福 生:花本まで。電話0425・〜”という貼り紙を見た時に即座に 応募を決めたのだった。

 全くのところ私はR・フリップタイプでもS・ハウタイプでも なく、ビートルズを聴いて音楽の道を志し、P・コゾフとL・ウ ェストがアイドルのハード&メロウギタリスだったのだが…1 年ほど前にキング・クリムゾンの素晴らしさを知ってからはク リム…と聞いただけで背筋が震えるほどの異常体質になってい たのだった(だからクリムトも栗蒸し饅頭も好きである)。

 3人の後についていくと、ちょっと変わった平屋の一戸建て が立ち並ぶ一画に出、そのうちの一軒に案内された。聞けば、 これが米軍人用に造られた「外人ハウス」というもので、彼等 はそこを借りて住み、スタジオ兼練習場としていたのだった。 アンプや楽器のある練習室に入ると隅にうずくまった陰気な男 が一人。その男がボーカリストということだった(北山だ!)。

 ひととおりの挨拶、経歴の紹介を済ませると早速いくつかの コード進行を決めて、アドリブ主体のジャムセッションに入っ たのだが、彼等の、予想を遥かに超えた演奏力の高さと、意表 を突く展開の巧みさに圧倒されまくりであった。こちらも、持 てる力のすべてを出して応じ、あっという間の2時間が過ぎた 。そして仲々の好感触を得、その日は帰途に就いたのだった。

 しかし1週間が過ぎ、2週間が過ぎても連絡はない…。

1か月目についに私はしびれをきらし、レスポールを手に再び 福生へと向かった。私の他にも何人かオーディションの予定が 入っている様子ではあったが、「私こそが、このバンドに必要 なギタリストである」という確信があり、彼等に、いかに私が このバンドに向いているか、貢献できるかを訴え、説得するつ もりだったのである。

 しかし、そんな私を彼等は待ちかねていたように笑顔で迎え てくれたのだった。
「いや〜アドレスなくしちゃって…よく来てくれたね〜!!」 …腰が砕けた。

 そして「自由に弾いていいよ」と花本君から楽譜を渡され、 早速練習することとなった曲が「回帰」と「絶望へ架ける橋」 であった。その独創性と斬新な構成は私をうならせ、ギタリス トとしての血がふつふつと沸き立つのを感じた。……私は、自 分が今、日本一のバンドの中にいる、ということを確信してい た。
(第2話完)



その3 「ギタリストの座危うし!?の巻」

晴天が続き、さすがに梅雨もそろそろ明けるだろう、と思える頃。時は1976年、7月下旬の土曜日昼過ぎ。所は福生。

さて練習に行こうと、私はアパートを出た。
機材は置きっぱなしなので手ぶらである。 練習場はそこから徒歩1分の、いわゆる元外人ハウス。玄関を入るとすぐに応接間、ほかに部屋が3つあり、ひとつを花本、もうひとつを小松が自室としていて、残りひとつを練習室に充てていたのである。

私の部屋から十数歩も歩くとそのハウスが見え、さらに同じだけ歩くともう音が漏れ聞こえてくる。防音のため、練習室の窓すべてを毛布で覆っていたがやはり完全ではないのだ。
それでクーラーなしなのだから夏の暑さといったらなかった。

2度目の、それも久しぶりのライブを3週間後に控えて、みんな高揚していた。
そのせいか今日はみんな早い。ドラムにキーボード、それにエレキギターまで聞こえる。
ミディアムテンポで気ままにジャムっているようである。ギターは北山が弾いているのか、それともキーボードが北山で花本が…などと考えた矢先、私の足は地面に張り付いた。

感覚のすべてがその音に惹き付けられ、思考が止まった。
違うのだ。まったく違う。
「オ、オレより遥かに上手い…」
しかもそのフレーズ、メロディたるや、とても日本人が弾いているとは思えない雰囲気を備えている。
静謐の中にも軽快感があり、針葉樹の深い森の中を妖精が舞っているようでもあった。
イギリス的、というよりはヨーロッパ的。敢えて近いギタリストを挙げるならハットフィールドのフィル・ミラーだろうか。 「だだだ、誰?」

私は好奇心のおもむくまま、恐る恐る練習室のドアを開けた。
と、そのギタリストと目が合った…。
「…あ、ギター借りてます。すいません」
ジャムを中断し、はにかみ顔で私に挨拶したその人は、助っ人ベーシストの桜井良行君であった。
みんなの視線が異様に私の足元に集中している。…靴を履いたままだった。

ギターも上手いベーシストが稀に存在するというのは経験上知っていたが、このときばかりは想像を遥かに超えていて、ただただ感心するばかりであった。
とりあえず秘密の新ギタリストではないことに安堵した私でもあった。

セレナーデのリハを終え、帰ろうとする桜井君に
「明日も練習あるんだから、よかったらオレの部屋に泊まっていけば?」
と誘うと
「ありがとう。でもネコが待ってるんで…」とあのはにかみ顔。
ますます好感を持つに至った私なのであった。
(第3話完)



●新月メンバーについて○

高津昌之(シンガーソングライター・ギタリスト/元セレナーデ)

北山真クン

 第一印象は「や、山田く…ん?」
 北山君と初めて会ったのは1974年秋。セレナーデ(当時はま だ名無し。マンモスバーベキュー⇒バーベキュー⇒チューナー を経てセレナーデに。メンバーは変わらず)のギタリストオー ディションで福生の彼らのスタジオ兼練習場に行った時。無口 で暗く、話しぶりの感じやたたずまいが、私が少し前に一緒に バンドをやりかけた山田修クン(「シームーン」という名曲を 書いた)と瓜二つ、という印象だった。ほどなく、彼らが同じ 高校の同級生で、クラブも同じ吹奏楽部。並んでホルンを吹い ていた、と聞いた時は腰を抜かしてしまった。しかし、二人を 同一場所で同時に見た者が一人として存在せず、「北山・山田 同一人物説」が急浮上。本人(北山クン)もあえて否定せず、今 も真相は謎に包まれている。

 最初は彼の作詞力に驚かされたが(「絶望に架ける橋」「殺 意への船出」等)、「光るさざ波」を聴いた時に、作曲家とし ても超一流である事を知った。この曲を初めて聴いた時の衝撃 は今も忘れられない。三日間、私の頭の中でエンドレステープ のように鳴り続けていた事を覚えている(でも、残念なことに1st ソロの「さざ波」は半分以上、良さがスポイルされたアレンジ だと思う)。

彼をひと言で言うと…『すべてを超えた人』
たとえば宇宙というものをひとつかみで捉えている、といった 大きさを彼には感じる事がある。

花本彰クン

 初めの頃の印象は「笑わない人」
 私は“楽しくなければバンドじゃない”が信条だったのでセ レナーデのメンバーとなるや「月間お笑い大賞」なるものを設 立し、その月の一番面白いジョークを言ったメンバーにみんな でメシをおごる、という事にした(私と清生(しずお)クンばっ かりが受賞者となるのでいつの間にか消えてしまった)。しか し私や清生クンが抱腹絶倒のギャグを言っても一人興ざめの表 情で無視を決め込まれていたものだった。それが今やどうであ ろう。正に「ユーモアの塊」である。彼の怒涛のジョーク、た たみかけるコントの嵐には誰もがタジタジとなってしまう昨今 。一体どうなってしまったというのだろう?

 彼の作曲・編曲能力には「絶望へ…」「回帰」で既に圧倒さ れていたが、前述したように「せめて今宵は」には絶句するし かなかった。そして私だけが知っている名曲に「島へ帰ろう」 がある。これのデモを聴いたときには本当に息を呑んだものだ った。「作詞者募集」に飛び付いたが、才能至らず結局私は歌 詞を完成させられなかった。これは今も残念に思っている。初 のフレーズは「あなたの 髪が 枯れてゆき」で、という注文だ った。後に北山クンが全く新しい詞を書き、新月で演奏される ようになったが、レゲエ調にアレンジされて、原曲の良さが伝 わりにくくなっているのは惜しいと思う。ぜひ、オリジナルア レンジまたは新アレンジで聴かせてほしいと思っている。

花本君をひと言で言うと…『芸術の鬼』

鈴木清生(しずお)クン

 第一印象は「軽妙な天才ベーシスト」  彼に会ってまず驚いたのは、やはりそのベーシストとしての 力量だった。私が今までにセッションした、あるいはバンドを 組んだどのベーシストよりも群を抜いていたからである。「本 物のミュージシャンがここにいる」という思いに私の心はうち 震え、自分もそれに応えられるギタリストであらねば、と精進 を誓った。花本君のところでも少し触れたが、出会った頃、彼 らの重苦しい雰囲気を粉砕しようと試み、まず仲間に引き入れ ようとしたのが清生君であった。彼らの中にあって一人だけ、 軽妙なユーモアを持ち合わせている事が窺えたからである。睨 んだとおり、我々二人のお笑いの結束力とパワーは次第に強力 なものとなってゆき、「セレナーデ」といえば「ああ、あのプ ログレコミックバンドね」と言われるまでになり、これが結果 的には花本君脱退の大きな原因となったのである(ホントか?) 。その清生君もやがて新月に加入、アルバムを残し脱退する。 家が近かった事もあり、その後も私との交流は続いた。しかし ある日忽然と姿を消す。

 数年が経った'80年代中頃、一枚の葉書が届く。「元気です か? 今僕はニューヨークに住んでいます。先日、セントラル パークにいてボンヤリしていると、突然ジョンの『イマジン』 が流れてきました。そうしたら、急に高津君の事が思い出され て、何だかとても手紙を書きたくなり、今こうしてペンを取っ ています。……」
その葉書は今も私の宝箱の中にあって、我々の友情の証として ひときわ輝いている。

清生君をひと言で言うと…『シャイな才人』

津田治彦クン

 第一印象は「良家の次男坊」
 正直なところ、彼とは浅い付き合いと呼べるほどの交流すら なく、その人となりを捉えるどころか、表面をなぞる事すらで きていない事実を最初にお断りしておく。
 津田君と顔を合わす機会は幾度となくあったが、同じギタリ ストということもあり、ライバル心もあったので自然と構える ようになってしまうのだった。ま、単に私の自意識過剰のなせ る業だったのだが。これは新月の他のメンバーについても言え る事なのだが、中でも津田君はその温厚な風貌と柔らかい物腰 から、一見そんなスゴイ人とは想像できない。が、楽器を持っ た瞬間、印象は一変する。彼の場合は表情すら変えることなく 、しかし指先だけが鬼神のごとくギターを弾きまくるのである 。このギャップには今もとまどいを禁じ得ない。不思議なキャ ラクターの持ち主である。
 私は、セレナーデ時代に一度だけ彼のグループ、HALと共演 した事がある(多分その時が初対面だったと思う)。その時、演 奏中に弦を切ってしまった私は彼の白いストラトを借りて急場 をしのいだ。そんな訳で実は彼には恩義があるのだ。

彼をひと言で言うと…『静かに燃える哲学者』

高橋直哉クン

 第一印象は「好青年」
 彼の場合も津田君と同じように付き合いが浅いので、ほとん ど表面をかする程度にしか語る事ができないのだけれど、出会 った頃の印象としては、性格に裏表がなく、しかも相手に対す る思いやりも感じられて、話していてとても好ましく思えた、 という記憶がある。そして、彼も福生に住むようになり(私の アパートから徒歩2分)、話す機会が増すにつれ、感じるように なった事だが、あの新月の中にあって唯一、考え方がマトモ、 というか(決して新月が変人集団だったというわけではない)一 般人そのものだった(いわゆる常識を持ち合わ せていた)と思う。

 他のメンバーが「音楽の追究こそが一生の命題」「好きな音 楽がやれれば言う事なし」「芸術はお金に換算できない」とい った思想であったのに対し、高橋君だけは「ちゃんとした生活 ができていなければ社会人として失格。僕はこんな事をしてい ていいのだろうか?」と常に葛藤していた気がする。あれだけ の技術を持っていながら迷いがある、というのは私には驚きで あった。ま、音楽一本で生活していくのがタイヘンなのは今も 昔も変わらない事だけどね…。しかしあの生真面目さと努力を 惜しまない彼のことであるから、 たとえばまっとうに一企業の中で働いていたとしても、相応の 地位を得ているのではないか、と想像できる。ところで彼は今 もあのスバル360に乗っているのだろうか?

高橋君をひと言で言うと…『スティックを持った職人』(って そのまんまやん)

…と新月のメンバーについて長々と書いてみたわけですが、 大好評だということで(おいおい、誰も言ってないって!しか も掲載前だしっ!)えー次回からは不定期連載ということで(コ ラッ勝手に決めるなっ!)『セレナーデの頃』と題してお送りし たいと思います(誰か止めろーっ!!!!)



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