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写真で綴る新月史

〜『グループ結成から解散までの真実』〜

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  • 1972まで 
    音楽への目覚め 
    (文中敬称略)

    【日常生活】

    花本 彰:
       新月のギタリスト津田の友人に、かつて前世リーディングを してもらったことがありました。その結果、僕はアトランティ ス時代にはいろんな生命をかけ合わせて喜ぶガシアという気違 い科学者だったらしいこと、その後はヨーロッパで教会のオル ガン弾きや神父をしていたらしいことなどがわかりました。ま たユダヤ人、フランス人の血も入り、ラテン系でもあり、とに かく色々な原因や結果が今世に日本で生まれた僕の中にあるよ うなのです。僕はたまたまそういう経歴らしいですがこれを読 んでいるみなさんも、いろいろなところを旅して今ここにいる のだと思います。

     なぜこんなことを新月史の冒頭に書いたかというと、まず僕 はこの種の話を聞くと疑いもなく丸ごと信じてしまう性格で、 そのことが自分の音楽観、芸術観、もっといえば人間が生きて いる意味、人間の進化、宇宙の進化(変化?)に対する考え方な どに大きな影響を及ぼしていると思うからです。
     そしてもうひとつ言えることは、プログレッシブ・ロックと いう形態の音に反応する人の多くに、同じ傾向が見られるとい うことです。

     ですから、このことをちゃんとしっかり考えれば「新月」の 存在した理由やプログレといわれる音楽がかつて担っていた役 割が、よりはっきりと見えてくるのではないかと思うのです。  新月が世に出た20年後に、ころんたさんが自分のホームペー ジにたまたま新月コーナーを作り、それを僕が偶然読み、今再 び様々な新月的な要素、70年代的要素が動きはじめているのも 歴史的な必然あるいは仕掛けなのかもしれません。

     ともあれ、僕は広島県尾道市に生まれました。白身魚やシャ コがおいしい、いいところです。僕の父は、映画監督の大林宣 彦さんのお父さん(医師)が戦時中に衛生兵だった頃、その部下 として働いていたそうです。父は中学校で本箱の作り方や花の 植え方を教え、母は自宅で美容院を営んでいました。その名も 「フラワー美容室」。開店当時のチラシを見ますとコールドパ ーマ200円となっています。

     ストレスのない気候の中で何不自由なく育った僕にも悩みは ありました。運動不足による肥満です。いわゆる肥満児。小学 校のころは学校で二番目のでぶと言われていました(その後一 番目のでぶの転校に伴う順位の変動あり)。小さい頃から絵を 書くのが好きでテレビの怪獣物をまねたマンガを仲間にまわし て得意になっていました。

     今思うと不思議なことがふたつ。一つ目は、小さい頃に絵を 書くと「うまいね、将来は絵かきだね」とか言われて誉められ るのですが、小学校高学年までそれを続けてしまうと「絵ばっ かり書いてないで勉強しなさい」と今度は怒られてしまうこと 。

     もう一つ。これはとても大切なことだと思いますが、鬼が出 るぞとかサンタが来るよとか言い続けていた親が、ある時期を 境に、「そのなものいるわけないでしょ」と自らの嘘を堂々と 告白することです。この宇宙に無駄なものは一切ないとすると 、世界中の親は何千年もの間、愛する子供たちに、なぜ嘘をつ き続ける必要があるのでしょうか。

     話を子供時代に戻しますと、スポーツと名のつくものはおし なべて苦手でした。「さかあがり」「水泳」ということばを聞 くたびに自然におなかが痛くなってきます。我が家は向島とい う島の中央部にあり、まわりは全部田んぼ。家から見える幼稚 園と小中学校のとなりには、広い広い塩田がありました。  
     中学時代にはVANショップが尾道にも進出。黒のブレザーと ギンガムチェックのスラックスが僕のいっちょうらでしたが所 詮は坊主頭、ろくなものではありませんでした。高校時代はフ ェリーで学校に通学しなければなりませんでしたが、下校途中 の飲食は何物にもかえがたい快楽でありました。ここで皆さん のために現在でも食べることができる尾道のおいしいものをご 紹介します。1「からさわ」のクリームぜんざい 2「つたふじ 」のラーメン 以上

    【音楽生活】

     のんきな次男坊として生まれた僕は5才上の兄の影響を少な からず受けています。兄弟姉妹がいるとそれだけで日常経験の 幅が大きく広がります。兄が聞いていたハンク・ウィリアムス やペレス・プラード楽団、トリオ・ロス・パンチョス、年上の いとこが集めていたセルジオ・メンデスやジョビンのレコード は僕の音楽原体験です。乾いた、せつない香りのするものばか りでした。母はニニ・ロッソや美空ひばりを好んで聞いていま した。1966年のビートルズ来日には新しいもの好きの伯父さん が行き、「頭の上をパンティが飛んどった」と興奮ぎみに話し ていたのを覚えています。
     ギターは、たしか小学校の高学年の頃から弾き始めたのだと 思います。買ってもらったのか、兄の持ち物だったのかはきれ いに忘れました。  
     やがて僕は、家にあった三味線や従兄弟の家の琴にも触手を 伸ばし、音楽の好きな子というイメージを定着させることに成 功しました。「運動ができないただのでぶ」からの脱脚です。 そしてこの「音楽が好きなただのでぶ」はその後、音楽を作る でぶに変身します。当時ヤマハが発行していた音楽雑誌「ライ トミュージック」に作曲講座を発見し、なんとなく自作の曲を 作りはじめたのです。

     高校に入るとアレンジの面白さにも目覚めます。ポール・モ ーリアの金管の鳴らし方、レーモン・ルフェーブルや服部克久 さんの弦の使い方、そういう部分的なところになぜか耳がいっ てしまう自分でした。ブラスバンドクラブに所属していた僕は 、好きで聞いていたバッハの管弦楽組曲第二番を思い切ってド ラム入りの軽音楽にアレンジし、20枚のパート譜を作って学校 に持っていきました。これが記念すべき僕のプログレアレンジ? 一作目です。
     この日から僕の部内での立場は一変、クラブ専属のアレンジ ャー兼指揮者という、えらく水っぽい待遇に格上げされました 。そうなると立場は人を作る。いよいよ音楽そのものが面白く なり、管弦楽法という本など買い込み、管楽器にはそれぞれの 楽器の特性で「鳴り」の悪い音階がいくつか存在することや、 楽器の音色にも相性があることなどを知りました。

     この軽音楽のアレンジャーというスタンスは、ひょっとして 今でも変らないのかもしれません。マンボもジャズもロックも 、そのペッタンコな楽音主義的視点で見ていくと、ある意味で 本質的な部分、つまりその音楽が持っている力の方向性、心や 体のどこに効くのかが、見えてくるのです。
     一方、エレキバンド!も中学時代から続けていました。毎日 暇にまかせての運指練習が功を奏し、自称尾道で一番うまいギ タリストとして町内に君臨していました。好きなアーティスト はモンキーズやレターメン(オロロ)。ごりごりのロックという よりは美しいメロディーを持ったポップな曲が性にあっていま した。
     ブルースは苦手でした。自分でギターをキュンキュンやって いる分には、なるほど気持ちが良いのですが、どうも現世が日 本人の僕にとっては借り物というか、心から共鳴できない壁が あるのです。「アイゲッタップディスモーニン~」(ホゥとか言 っちゃって)のどこがいいのだろう????? ロイク苦手。 
     レッド・ツェッペリンはわかります。好きでした。初来日は たしか高校2年の時。なんと広島から日本ツアーがはじまると いう、絶好のチャンスでしたが、試験やら何やらで行くのをや めにしました。これはあとで相当悔やみました。この頃になる と出版メディアも今と変らないくらいに充実し、ロックの輸入 盤も通販で買えるようになりました。「ブラインドフェイス」 の輸入盤は、女の子の裸が問題になってバンド写真がジャケッ トになったバージョンがあり、そっちの方がいいやと注文した ら裸が来て微妙な心持ちになったのを覚えています。  
     高校3年生になると、バートバカラックのように自分のオー ケストラをしたがえて、世界を旅したいと思うようになってい ました。また自分はロックバンドのギタリストとしても通用す るのではないかという大妄想もありました。オーケストラとロ ックバンド、この相容れない二つの音楽を両手に抱えたまま、 僕は音楽大学に進学することを決意、家の生活が困窮していな かったのが幸いし、ピアノ三昧の半年と一年(浪人してしまっ た)を過させてもらい、日本大学芸術学部音楽学科作曲科へす べり込むことに成功しました。
     どっちの方向に行くにしろ、バッハからはじまる作曲の基本 を学ばないことには始まらないと当時は真剣に思っていました 。
     まずは軽音楽部に入って新しいタイプのバンドを作ろう。そ う思って入ってはみたものの、部内はハードロックとブルース の信奉者ばかり。その時はまだ、プログレッシブ・ロックにも 出会っていませんでした。 〈1972-1976に続く〉


  • 1972-1975 (文中敬称略) 

    バンド遍歴

      【日常生活】

    花本 彰:
     この時代の代表的なロックファッションは・きちんと手入れ されていない、ただの長髪 ・ロンドンブーツ ・それらにマ ッチするカバン類、といったものでした。着飾るという概念が 全くなかった僕でさえ、ホソノのオーダーメイドブーツをはい ていました。家にあがった途端、全員の背がボッコリ小さくな ったのを覚えています。あの頃世界で一番カカトの高いブーツ を履いていたのはやはりチューブスのヴォーカルか?
     渋谷のハチ公前広場では時々、坊主頭の右寄り?外国人が長 髪青年を捕まえ「Are you a girl?」「カミヲキレ!」などと 詰め寄っていました。僕も詰め寄られたひとりです。害はない のですが。 
     ロック喫茶にはよく通っていました。渋谷のブラックホーク とか原宿にあったライトハウス。ライトハウスではライトショ ーという時間がありました。ロックを大音量でかけて、照明を チカチカさせるだけのものでしたが当時はこれにはまっていま した。ここで「ブラックサバスの再来」と謳われたクイーンの ファーストアルバムを買った覚えがあります。
     レコード袋でかっこ良かったのは原宿竹下通りにあった「メ ロディーハウス」と後に江古田にできた「おと虫」あたりでし ょうか。両方とも白をベースにしたシンプルなデザインでした 。「DISK UNION」の袋は当時から、だんだん赤く剥げていく黒 いビニール製のそれでした。
     1973年からは生活拠点を米軍の横田基地がある福生に移し ました。俗にいうハウス(一般に貸し出されている米軍の元宿 舎)です。
    一軒家なので、ある程度の防音さえすれば自由にバンド練習が 出来ました。まわりには同類の仲間(変人)が大勢住んでいて、 その乾いた空気は、まるでリトルアメリカ(行ったことない)の ようでした。東京アンダーグラウンドで有名になったピザ屋の ニコラスも近くの国道16号線沿いにありました。僕のイタリア ン初体験もこの店でした。大きなアメリカ兵と強いトマトソー スの味をかすかに覚えています。

    【音楽生活】

    大学一年生

     昔、バンドやミュージシャンの経歴を表した、なんとかツリ ーという図がはやりましたが、その枝先には大抵、どうでもい いようなアマチュアバンドの名前が書かれていました。これか らその枝先のことを書いていくわけですが、僕はむしろこの部 分にこそ新月というバンドの核心が隠されていると思いますの で、すこし丁寧に思い出してみることにします。
     僕の最初のプログレ体験はYESです。アカデミックな作曲理 論をバンド活動に活かそうと親のすねをかじり、作曲科のある 大学に入学した僕はある日、緑色のレコードジャケットを得意 げにかかえて校門から入ってくる友人、和田輝夫とばったり出 くわします。彼は後に新月のギタリストとなる津田治彦の幼馴 染みで、僕と同じく軽音楽部の新入部員でした。
     僕は当時フィフスディメンションのようなコーラスものや弦 を主体としたオーケストラアレンジに興味をもっていました。YES はその両方のツボにぴったりはまりました。またブルース色が うすいことにも僕は好感を持ちました。当時のロックンロール バンドやブルースバンドの周辺の人々に漂う、ある種の集団暴 力的な雰囲気に馴染めなかったのです。

    「OUT OF CONTROL」
     やがて和田と僕は意気統合し「OUT OF CONTROL」という名 のバンドを組みます。僕は授業で習った十二音音階やメシアン などのモード音階を使ってさっそくオリジナル曲を書き上げま した。ここに当時の練習テープがありますが、とても聞ける代 物ではありません。はっきり言ってひどい曲です。このインス トバンドではフォーカスのコピーなども嬉しがってやっていま した。四人囃子や成毛滋は難しそうなのでやりませんでした。 そして忘れもしない高田馬場の歌声喫茶!でのファーストライ ブ。和田のギターはギブロンかギャバンか忘れましたがギブソ ンの偽物でした。そこで彼は見栄をはり、津田から本物のスト ラトを借りたのでした。それが僕と津田との出会いでした。和 田は慣れないストラトに大苦戦。見ろ、いわんこっちゃない。 おまけにドラマーの本坊はビータ(バスドラムをたたく機具)を 忘れてきました。彼はコンサートが終わるまで、バスドラを右 足で蹴り続けていました。

     この記念すべき初ライブの後、僕たちは意を決してヤマハ楽 器店に「プログレッシブロックのヴォーカル募集」のはり紙を 出しました。それから数週間たった頃でしょうか。「あのう、 ヤマハで見たんですけど」という電話がかかってきました。北 山真です。
     彼はボブ・ディランやドノバンなどのフォーク系からプログ レッシブロックへと表現の方向性をかえようとしているところ でした。
    この時すでに彼のノートには、おびただしい数のオリジナル曲 が書き連ねてありました。歌詞は繊細極まり、声にはすばらし い説得力がありました。
     こうしてやっとバンドらしいバンドになった「OUT OF  CONTROL 」で、僕と北山の共同作業が始まりました。
    僕は初めて歌入りの長尺物を書き、彼がそれに壮大な詩をつけ ました。タイトルは「殺意への船出」。後にその物語の続編が でき、こちらの曲は「Part1」という呼び方をするようになり ました。
    しかしこの曲は人前で一回演奏されたきり、なんとなくお蔵入 りになってしまいました。この曲も今ではカセット音源がある のみです。北山が書き溜めていた、いくつかの美しい曲もこの 時代に演奏した記憶があります。

     世はプログレ全盛期でした。その頃のプログレッシブロック は、今まで聞いたことのない音、使ったことのない手法、やっ たことのない組み合わせなどで満ちていました。ロックバンド という形態を借りた音の実験室でした。そしてロックからつま はじきにされていた文科系の人々の救世主でもありました。座 って聞いても怒られないロック、それがプログレでした。本当 かい。

    「セレナーデ」
     それからいろいろあってギターの和田とベースの津久井など が抜け、かわりにギターの高津昌之、ベースの鈴木清生、ドラ ムの小松博吉が加入しました。確か彼等もはり紙だったと思い ます。はり紙はきくものです。高津氏はフリーのポール・コゾ フなどを好んで聞いていました。彼の泣きのギターはバンドに 「正統派ロックバンドらしい安定感」を与えてくれました。彼 がソロをとるとなぜか安心していられました。ベースの鈴木は 当時のフュージョンシーンのスター、ジャコ・パスやスタンリ ー・クラークの影響を受けていました。彼はあたかも他の楽器 と会話でもするように メロディーを組立てていくのが得意です。メロディー隊とリズ ム隊の関係を主従の関係ではなく向かい合う関係に。新月の「 白唇」で聞けるような、そのプチジャズ的なアプローチ法は彼 がこの「セレナーデ」時代に培ったものです。
     「セレナーデ」のライブは2年の活動期間中、たったの3回!  この異常さは、自分たちが音楽の神に帰依し奉仕している快 楽のみでつき進んでいたことを物語っています。バンド内セラ ピー状態です。
    そのおかげで「殺意への船出Part2」「回帰」「青い青空」「 絶望への架け橋」(すごいタイトル!)など、沢山の曲を作るこ とができました。 僕たちには、いつでも音を出せる環境と豊富な時間がありまし た。

    「ベラドンナ」を知る
     ある日「OUT OF CONTROL」時代のギタリスト和田からカセッ トテープを受け取りました。ギターの津田治彦とドラムの高橋 直哉が参加しているプログレ・インスト・バンド「ベラドンナ 」の演奏テープでした。プロやんけ。キーボード、ギター、ベ ース、ドラムという構成で、とにかくそのオリジナリティーと 演奏技術の高さには圧倒されました。何々風という形容詞が全 く思い浮かばないほど独創的な曲調でした。そしてその堂々た る演奏ぶり。COOL!! 僕は自分たちのバンドとの格の差にがく 然としました。やっぱり練習中は「ポテチン」とか言って笑っ たりしてないんだろうな、うちみたいに。その津田も「セレナ ーデ」のテープを持っていて、気にいっているみたいだとのこ とでした。
     そして、この二つのグループが、あるプログレ・コンサート でジョイントすることになりました。津田のグループはメンバ ーチェンジを経て「HAL」と名のっていました。
    「セレナーデ」の出番の前、客席でその圧倒的な演奏を聞きな がら 僕は、彼と一緒にバンドを組めないものかという強烈な思いを 持ちはじめていました。    〈1976-1977(新月始動)に続く〉




  • 1976-1977 新月始動 
    (文中敬称略)

    【日常生活】

    花本 彰:
       音楽を志す若者にとって1970年代は決して住みにくい時代で はなかったと思います。ある程度楽譜が読めさえすればキャバ レーやクラブでの仕事がふんだんにありました。バブルが大き くなりはじめた頃でもあり、美人のホステスに熱をあげる自営 業のおじさんや、会社の経費で毎日遊んでいる営業マンたちの おかげで、キャバレーは大盛況でした。特にジャズ系の人はビ ッグバンドの中でつぶしがきくのでそれを生活の糧にしていた 人は多かったように思います。

     僕も昼は大学やバンドの練習、夜はクラブやキャバレーでの 演奏という毎日を過していました。そのおかげで、高価なキー ボード類もどうにか購入することが出来ました。プログレの秘 宝「メロトロン」を輸入していたのは渋谷にあるCMCという会 社です。社長の山下さんにはよくしていただき、赤坂の高級ク ラブの楽屋に連れていってもらった覚えがあります。当時はイ ギリスやイタリアから売れないブログレバンドが出稼ぎにきて いて、それを見に行ったのです。山下さんはもっぱらメロトロ ンの調整係でした。
     その頃の町は、寺山さんの芝居はやっているわ、フリークス とピンクフラミンゴの2本立てやってるわ、10ccはやってくる わ、とにかく「ぴあ」を片手に町に出れば退屈はしませんでし た。反体制、反商業主義といった二項対立を幼稚に信じていた 幸せな時代でもありました。

    【内的生活】

     人生の中には、とても大事な人(注目すべき人々?)との出会 いが何回かあるといいますが、僕にとっては津田がその一人で した。それまでの僕の読書生活は、なんとか賞をとった作家の 文学作品やエッセイを読みとばすぐらいで、人生観や世界観も それに類するものでした。ところが当時彼が読んでいたものは 、神秘主義や神道関連の本が中心でした。。シュタイナー、グ ルジェフ、ウスペンスキー、ブラバツキーから出羽三山の秘義 に到るまで、わけのわからないものばかり。とにかくオカルト がギター担いで歩いているような存在でした。時は1970年代の 中頃。本屋の棚を探してもそんな本は全くありませんでした。  僕は津田に借りたり注文して買ったりして、急激にその世界 にはまっていきました。イザラ書房の本はとても読みにくかっ た。しかし「アーカーシャ年代記より」という薄っぺたい本を 読み終える頃には、自分の性格も手伝って、なんとなく自分の ことを、高次の存在と巷の凡夫との間にいる選ばれた存在であ るように感じていました。それは後に大きな勘違いだとわかる のですが。

     とこかくそのおかげで、僕が住んでいる世界は、もっと大き な世界の、ほんの一部分にすぎないということを感覚的に認識 することができました。日常生活の中だけで全てのケリをつけ なくてもいいんだ。単純な僕はそう納得しました。公園を掃除 するのもやめました。ただ僕は集合意識側にだけ生きているわ けではなく、肉体をもってこの世にいるし、ここが本番の舞台 なわけで、その折り合いがちゃんとつくようになるにはそれか らまた何年もかかりました。

     たった一人との出会い。その重さを時々考えます。津田との 出会いがなければ、僕は今でいう精神世界との出会いもなく、 おそらく新月の存在もなかったでしょう。そしてまた津田にと っても、僕という存在との出会いが、あの時必要だったのでは ないかと思っています。

    【音楽生活】「新月」結成

     確かに鬼の花本と言われてもしかたないかもしれません。  僕はある日突然「セレナーデ」を脱退したいと言い出しまし た。どんな理由をつけたのかは、もう覚えていません。他のメ ンバーがどんな思いをするかなんて考えようともしませんでし た。世界に通用するプロフェッショナルなグループを作りたい 。その思いで頭はいっぱいでした。たぶんその前に津田と何回 か連絡を取り合って彼の合意を取り付けていたのでしょう。僕 は「セレナーデ」脱退直後に津田と会い、すぐに新しいグルー プをスタートさせています。メンバーは花本彰(kbs)、津田治 彦(g)そして高橋直哉(drs)の3人。

     メンバーに「セレナーデ」で一緒だった北山真(vo)と鈴木清 生(b)の名前がないことに驚かれる方もいらっしゃると思いま すが最初は3人からのスタートでした。
     北山のすばらしさは充分わかっていましたが、唯一ピッチに 問題がありました。それはとても由々しき問題でした。大部分 の善男善女は音程の確かさに大きな音楽的価値を見い出すから です。
     鈴木のベースに関しての不満。それは今思うと僕のベースに 対する認識の浅さに起因するものでした。僕は当時、ベースは べースらしく低音部をおとなしく支えてくれればいいと思って いたのです。

     「セレナーデ」はその日以降、何人かのメンバー補充を試み ましたが適任者がおらず、高津、北山のデュオ・ユニット「牛 浜ブラザース」へと収束していきます。このデュオは今も続い ています。

     一方、新グループの補充メンバーの方はすぐに見つかりまし た。津田、高橋組と同じ青山学院大学の仲間、遠山豊(vo.g.kbs) です。彼はルックス、スタイルとも抜群でした。ジェフ・ベッ ク似。マルチプレイヤーでもある彼はそれぞれの楽器のサポー ト役として大活躍し、アルバム制作が決まってからは、新月の マネージャーに転向して新たな才能を発揮してくれました。
     僕たちは曲を書きためながら、補充メンバーを捜し続けまし た。新しいベーシストを何人か試しましたが、鈴木の後では誰 が弾いても何かもの足りず、最終的には鈴木の加入が決まって 一件落着。その頃はもう「新月」という名前を名乗っていたと 思います。  

     問題はリードヴォーカルです。江古田のライブハウスでパフ ォーマンスをしているおもしろいやつがいるという情報があり 、見に行ったこともありました。後にヒカシューとしてデビュ ーすることになる巻上公一氏でした。彼は白いつなぎ姿で股に くっついている蛇口から水を出して飲む行為を続けていました 。目指している方向が違いそうで、彼には声をかけませんでし た。
     女性ヴォーカルも試みました。ここに当時のカセットがあり ますが「せめて今宵は」がまるでオペラのアリアのように朗々 と歌われています。他の男性ヴォーカルを入れて音楽コンテス トに出場したこともありましたが、審査員からは完全に無視さ れました。

     ヴォーカリスト選びは難航していました。
     確かにみんなピッチは正確です。しかし、高い声が出たり音 程が確かであっても何かが欠落している。何が足りないのだろ う。津田は「うーん」とうなるばかり。「鬼」や「白唇」など 主要な曲はすでに書きあがっていました。

     新しいバンド、新しい曲が求めている声はどんな声なのか。
     それは訴える力をもった声です。曲と拮抗する強度をもつ声 。強度とは力強さのことではもちろんなく、その人の内的経験 の豊かさ、人を見る眼差しの深さのことです。
     欠落している者だけに見える光、失った者だけに聞こえる歌 、それをしっかり捉えることができる人でなければならない。  僕と津田は二人とも、もうわかっていました。
     津田が、ぼそっと言いました。「北山でいいじゃん」
     新月が日本随一のプログレ・ヴォーカリストを手に入れた瞬 間でした。 〈1978-1979に続く〉


  • 1978-1978 ライブ活動
    (文中敬称略) 

    【音楽生活】本当の「新月

    花本 彰:
       電話口に出た北山は過去の経緯には何もふれず、新月のヴォ ーカリストへのオファーを快く受けてくれました。実は北山は 僕の新グループ「新月」のライブを時々見に来てくれていまし た。吉祥寺の電気店「DAC」二階のイベントスペースで定期的 に行っていたライブにも彼は顔を出してくれました。新月の曲 を聞いた北山は「キャメルのような」印象を持ったといいます 。その時のヴォーカルは、0011ナポレオン・ソロのデビッド・ マッカラム似の人(名前を失念 )で、後にちょっと名の売れた ロックンロールバンド(名前を失念)に加入して活躍しました。 北山評は「踊りながら歌う人」  当時、アマチュアのブログレバンドを受け入れてくれるハコ はほとんどありませんでした。このDACと江古田にあるマーキ ー、渋谷の屋根裏、そして吉祥寺のシルバーエレファントぐら いだったでしょうか。そんなわけでこの四店のイベントプログ ラムには、他のプログレバンドもたくさん名を連ねていました 。DACのスケジュール表に新月とマンドレイクが並ぶといった 具合です。

     平沢進くん率いるマンドレイクは新月よりはるかにイマジネ イティブなステージを展開していました。曲の進行に合わせて 女性の声などの効果音が流れ、最後には白い巨大な球体が会場 のまん中で膨れ上がっていました。マンドレンクの美術は平沢 くんのお兄さんである裕さんの担当です。裕さんは白衣とサン グラス姿で様々な機械操作をしていました。P-MODEL時代にも 感じたのですが、裕さんが作り出すものは、いつもハンドメイ ド的なあたたかさに包まれていて、弟が作りだしているクール で硬質なイメージと、絶妙な対比を見せていました。彼らの演 奏はずっしりとのしかかるように重く、キングクリムゾンを彷 佛とさせるものがありました。ちゃんと音楽している数少ない バンドのひとつでした。また平沢くんは「新月は演奏がうまく ていいね」とこぼしていましたが、僕はその言葉が不思議でな りませんでした。マンドレイクの方がよっぽどクオリティの高 い演奏をしていましたから。
     彼らとはその後も色々と間接的な繋がりがあり、新月後期の マネージャーであった山口裕市氏は後にP-MODELのマネージャ ーとしても活躍しました。

       新月に入った北山が最初に行った仕事は、全ての歌詞をチェ ックし、表現のクオリティをすこしでも上げることでした。餅 は餅屋。僕や津田が一つひとつの音に高い精度を求めるように 、彼は一言一句に深度と洗練を求めました。ただし手のつけよ うがないものは無視を決めこんだようです。
     この時点での新月のメンバーは6人。僕と津田、北山、鈴木 、高橋、そして遠山です。「鬼」「殺意への船出」「白唇」「 せめて今宵は」「赤い目の鏡」「不意の旅立ち」といった新月 の代表曲は北山加入以前からすでに演奏されていましたので、 彼は新月に入った新入りヴォーカリストという立場でした。

     勿論それぞれの曲にはその曲調にふさわしい歌詞がついてい ましたし、実際に僕たちはこれらの曲を何回もステージで演奏 してきました。しかし練習スタジオで北山が新月の曲を歌い始 めた瞬間、僕は息をのみました。乾涸びた大地に雨がしみ込み 、植物の種子が長い眠りから醒めるように、一つひとつの曲に いのちが吹き込まれ、その本来の姿を見せ始めたのです。
     それらは僕たちの想像をはるかに超える巨大な造形物となっ て眼前にたち現れました。「表現とははみ出している部分であ る」と定義させていただくと、新月の曲はその瞬間に個々の技 量や思惑から大きくはみ出し、暴力的なスピードで、かつて見 たことのない新しい表現物としてその姿を現したのです。僕を 含めたぶん全員があっけにとられ、同時に本当の「新月」の誕 生を実感した瞬間でした。
     繰り返すようですが、この魔術的瞬間こそが新月の全てであ ったと僕は思います。表現は確かに空の中で実を結んだのです 。
     後日、僕はひょんなことから「イエス」のジョン・アンダー ソン氏と話す機会を得ましたが、彼も「自分の音楽は空中から つかみ取るんです」という意味のことをかん高い声で話してく れました。

    【ライブ活動】

    花本 彰:
       しかし時は既にパンクの時代でした。ピーガブもロバフリも 「カミヲキリ」ました。新月も後にその波をまともに被ること になるのですが、僕たちの中ではまだまだ対岸の火事。やっと 見つけた自分たちの表現を完成させることに全生活をかけてい ました。いやそこそこ私生活もありました
     北山加入からライブ活動再会まではそんなに時間はかかりま せんでした。北山加入記念ではないですが、江古田のマーキー でジェネシスの名曲「ミュージカルボックス」の新月バージョ ンをやったこともありました。活動の拠点は前述の四箇所です 。当時シルバーエレファントにいた人は「2バスの巨大なドラ ムセットだけでステージがいっぱいになって驚いた」と回想さ れています。なにしろすごい量の機材でした。イギリス大好き の僕と津田はハイワットのフルセット。鈴木はサンのベースア ンプを大音量で鳴らしていました。北山はマイクスタンドの中 央部に照明のオンオフスイッチをくくり付け、自分自身でコン トロールするという懲りようでした。

     こうして始まった第2期新月のライブ。何ごとも真心込めて 繰り返せば良い結果が得られるらしく、聴いてくれる人も徐々 に増えていきました。雑誌「フールズメイト」(僕たちの間で は「ズルメ」で通っている)の北村昌士くんもその一人でした 。幸運なことに彼は新月をいたく気に入ってくれ、色々とバッ クアッブしてくれました。いつもえらっそうな文章を書く彼で すが、笑顔のかわいい、ある意味単純で純粋な人でした。

    【スタジオJ(ゼイ)】

    花本 彰:
       新月の練習スタジオはこの頃から、渋谷の並木橋の近くに当 時あった「スタジオJ」に移ります。僕は広島県生まれなのでJ の発音が不得手で、ついゼイと言ってしまい、心ない周囲のス タッフからよくからかわれていました。大きな心の傷。
       さて、このスタジオJで僕たちは、とても重要な人物との出 会いを果します。後に新月のレコーディングディレクターとな る森村寛くんです。彼は高橋くんや遠山くんが所属していた青 学の軽音楽部のからみで新月との繋がりをもちました。森村は 当時このスタジオの専属ミキサーとして、サウンドクラフトの16 チャンを縦横無尽に操っていました。
     「ズルメ」の北村くんと「スタジオJ」の森村。この二人は 後に、新月メジャーデビューへの大きな鍵を握ることになります。

    【1978-1979 レコーディング開始】へ続く


  • 1979(レコーディング)
  • 1979-1981(新月の終焉)
  • 1982以降(未来も入る)




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