【日常生活】
花本 彰:
音楽を志す若者にとって1970年代は決して住みにくい時代で
はなかったと思います。ある程度楽譜が読めさえすればキャバ
レーやクラブでの仕事がふんだんにありました。バブルが大き
くなりはじめた頃でもあり、美人のホステスに熱をあげる自営
業のおじさんや、会社の経費で毎日遊んでいる営業マンたちの
おかげで、キャバレーは大盛況でした。特にジャズ系の人はビ
ッグバンドの中でつぶしがきくのでそれを生活の糧にしていた
人は多かったように思います。
僕も昼は大学やバンドの練習、夜はクラブやキャバレーでの
演奏という毎日を過していました。そのおかげで、高価なキー
ボード類もどうにか購入することが出来ました。プログレの秘
宝「メロトロン」を輸入していたのは渋谷にあるCMCという会
社です。社長の山下さんにはよくしていただき、赤坂の高級ク
ラブの楽屋に連れていってもらった覚えがあります。当時はイ
ギリスやイタリアから売れないブログレバンドが出稼ぎにきて
いて、それを見に行ったのです。山下さんはもっぱらメロトロ
ンの調整係でした。
その頃の町は、寺山さんの芝居はやっているわ、フリークス
とピンクフラミンゴの2本立てやってるわ、10ccはやってくる
わ、とにかく「ぴあ」を片手に町に出れば退屈はしませんでし
た。反体制、反商業主義といった二項対立を幼稚に信じていた
幸せな時代でもありました。
【内的生活】
人生の中には、とても大事な人(注目すべき人々?)との出会
いが何回かあるといいますが、僕にとっては津田がその一人で
した。それまでの僕の読書生活は、なんとか賞をとった作家の
文学作品やエッセイを読みとばすぐらいで、人生観や世界観も
それに類するものでした。ところが当時彼が読んでいたものは
、神秘主義や神道関連の本が中心でした。。シュタイナー、グ
ルジェフ、ウスペンスキー、ブラバツキーから出羽三山の秘義
に到るまで、わけのわからないものばかり。とにかくオカルト
がギター担いで歩いているような存在でした。時は1970年代の
中頃。本屋の棚を探してもそんな本は全くありませんでした。
僕は津田に借りたり注文して買ったりして、急激にその世界
にはまっていきました。イザラ書房の本はとても読みにくかっ
た。しかし「アーカーシャ年代記より」という薄っぺたい本を
読み終える頃には、自分の性格も手伝って、なんとなく自分の
ことを、高次の存在と巷の凡夫との間にいる選ばれた存在であ
るように感じていました。それは後に大きな勘違いだとわかる
のですが。
とこかくそのおかげで、僕が住んでいる世界は、もっと大き
な世界の、ほんの一部分にすぎないということを感覚的に認識
することができました。日常生活の中だけで全てのケリをつけ
なくてもいいんだ。単純な僕はそう納得しました。公園を掃除
するのもやめました。ただ僕は集合意識側にだけ生きているわ
けではなく、肉体をもってこの世にいるし、ここが本番の舞台
なわけで、その折り合いがちゃんとつくようになるにはそれか
らまた何年もかかりました。
たった一人との出会い。その重さを時々考えます。津田との
出会いがなければ、僕は今でいう精神世界との出会いもなく、
おそらく新月の存在もなかったでしょう。そしてまた津田にと
っても、僕という存在との出会いが、あの時必要だったのでは
ないかと思っています。
【音楽生活】「新月」結成
確かに鬼の花本と言われてもしかたないかもしれません。
僕はある日突然「セレナーデ」を脱退したいと言い出しまし
た。どんな理由をつけたのかは、もう覚えていません。他のメ
ンバーがどんな思いをするかなんて考えようともしませんでし
た。世界に通用するプロフェッショナルなグループを作りたい
。その思いで頭はいっぱいでした。たぶんその前に津田と何回
か連絡を取り合って彼の合意を取り付けていたのでしょう。僕
は「セレナーデ」脱退直後に津田と会い、すぐに新しいグルー
プをスタートさせています。メンバーは花本彰(kbs)、津田治
彦(g)そして高橋直哉(drs)の3人。
メンバーに「セレナーデ」で一緒だった北山真(vo)と鈴木清
生(b)の名前がないことに驚かれる方もいらっしゃると思いま
すが最初は3人からのスタートでした。
北山のすばらしさは充分わかっていましたが、唯一ピッチに
問題がありました。それはとても由々しき問題でした。大部分
の善男善女は音程の確かさに大きな音楽的価値を見い出すから
です。
鈴木のベースに関しての不満。それは今思うと僕のベースに
対する認識の浅さに起因するものでした。僕は当時、ベースは
べースらしく低音部をおとなしく支えてくれればいいと思って
いたのです。
「セレナーデ」はその日以降、何人かのメンバー補充を試み
ましたが適任者がおらず、高津、北山のデュオ・ユニット「牛
浜ブラザース」へと収束していきます。このデュオは今も続い
ています。
一方、新グループの補充メンバーの方はすぐに見つかりまし
た。津田、高橋組と同じ青山学院大学の仲間、遠山豊(vo.g.kbs)
です。彼はルックス、スタイルとも抜群でした。ジェフ・ベッ
ク似。マルチプレイヤーでもある彼はそれぞれの楽器のサポー
ト役として大活躍し、アルバム制作が決まってからは、新月の
マネージャーに転向して新たな才能を発揮してくれました。
僕たちは曲を書きためながら、補充メンバーを捜し続けまし
た。新しいベーシストを何人か試しましたが、鈴木の後では誰
が弾いても何かもの足りず、最終的には鈴木の加入が決まって
一件落着。その頃はもう「新月」という名前を名乗っていたと
思います。
問題はリードヴォーカルです。江古田のライブハウスでパフ
ォーマンスをしているおもしろいやつがいるという情報があり
、見に行ったこともありました。後にヒカシューとしてデビュ
ーすることになる巻上公一氏でした。彼は白いつなぎ姿で股に
くっついている蛇口から水を出して飲む行為を続けていました
。目指している方向が違いそうで、彼には声をかけませんでし
た。
女性ヴォーカルも試みました。ここに当時のカセットがあり
ますが「せめて今宵は」がまるでオペラのアリアのように朗々
と歌われています。他の男性ヴォーカルを入れて音楽コンテス
トに出場したこともありましたが、審査員からは完全に無視さ
れました。
ヴォーカリスト選びは難航していました。
確かにみんなピッチは正確です。しかし、高い声が出たり音
程が確かであっても何かが欠落している。何が足りないのだろ
う。津田は「うーん」とうなるばかり。「鬼」や「白唇」など
主要な曲はすでに書きあがっていました。
新しいバンド、新しい曲が求めている声はどんな声なのか。
それは訴える力をもった声です。曲と拮抗する強度をもつ声
。強度とは力強さのことではもちろんなく、その人の内的経験
の豊かさ、人を見る眼差しの深さのことです。
欠落している者だけに見える光、失った者だけに聞こえる歌
、それをしっかり捉えることができる人でなければならない。
僕と津田は二人とも、もうわかっていました。
津田が、ぼそっと言いました。「北山でいいじゃん」
新月が日本随一のプログレ・ヴォーカリストを手に入れた瞬
間でした。 〈1978-1979に続く〉