「新●月●全●史」
新●月
・鬼
・朝の向こう側
・発熱の街角
・雨上がりの昼下がり
・白唇
・魔笛”冷凍”
・科学の夜
・せめて今宵は
『鬼』。1979年、初めて聴いた新月の曲が、この曲。『鬼』だ。まずはAMラジオで、そしてLPで、そしていつの間にかLPは擦り切れてしまい、しばらく新月を聞くことができなくなってしまい、そして、それまでCDの再発を知らず、1999年にCDでの再発盤「新月/新月」と同時に「赤い目の鏡」を聴き、、2004年に「新●月LIVE1979」と、常に、常に、新●月のアルバムを聴くとき、一番初めに聴く曲だ。
そして、26年の時を経てのリマスタリング盤「新月/新月」。
ここで、また初めに『鬼』を聴く。
いままでこちらから聞きに行こうとしていた音が、新●月の方から聞こえる。
美術館で、ガラス張りの展示ケースの中にあったから、遠目でしか見られなかった、憧れのあの絵が、絵具の盛り上がりまで見える。
パーテーションで区切られて、それ以上近づけなくて、大好きだけど、ぼんやりと全体しかわからなかったあのデッサンが、背景まで立体になって見える。
いつまでも、ぼんやり眺めて見ていたいあの朝からやみへとすこしづつ変化するあの風景が、あるいはフラッシュみたいに矢継ぎ早に早い回転で網膜に焼き付けられるのを、すこーし霞がかった向こうで上映されていたのが、雨上がりのくっきりした空、ねじこまれる空間、わたしのなかみ、からまたはるか遠くへ、知ってるけど知らない星空、そのむこう、どこか違う国、街の灯り、肌に体感する氷の粉、そして、フックがついてる、何かが見える。はっきり見える。
これが、ほんとうの「新月/新月」。
新月はただ、見えないだけで、月は存在しているもの。26年ぶりに、その見えなかっただけで、ずっと以前から居た、真の姿に会えた。
また、これから、この『鬼』を何回、何回聴くのだろうか。
そして、星が降ってくる。そして、目にうるむ星のまたたき、灯りが、『鬼』へと誘い、永久に、「新月/新月」から離れなくさせる。
「新月/新月」。やっと、やっと、出会えた。ほんとうの、新●月に。
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遠き星より
- ・生と死
- ・赤い目の鏡
- ・殺意への船出partT
- ・殺意への船出partU
- ・島へ帰ろう
- ・鼓星
・『生と死』
この曲のタイトルを知らなくても、前半部分「生」という言葉がくっきり浮かぶ。
だけど、「死」のほうはなんだろう?ひたすらわたしには生だけが聞こえる。でも死が再生を意味するものものなら、死も生であることに間違いない。鈴木さんのベースは龍みたい。天へ登る龍。あかい砂漠の砂塵を巻き上げて天へ登る龍。新●月の26年ぶりの新曲が、こんな曲だったとは、予想だにしなかった。新たなスタートにふさわしいと、思う。
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OutTakes
- ・寸劇「タケシ」
- ・不意の旅立ち
- ・島へ帰ろう
- ・赤い目の鏡
- ・チューニング
- ・白唇
- ・科学の夜
- ・せめて今宵は
- ・ベースパートの練習
- ・鬼
- ・殺意への船出partU
・ベースパートの練習
これが、あ、『鬼』だって、気づいた瞬間嬉しかった。こうやって、曲が出来ていくんだ。コンサートのリハーサルを見せていただいた時、合間に鈴木さんのこの『鬼』のこの部分が聞こえてきて、とても嬉しかったのを覚えている。
・『鬼』
あの『鬼』なんだけど、ほとんどおんなじなんだけど「新月/新月」収録盤と違う鬼なのは、すぐにわかる。どこが、って言われても音楽的な事言えないから、解説はできないのだけど、あの場所にはまだ、完全に行ききれない、行くべき場所はそこに見えてるのに、行かれない。あの囲炉裏の光景の主人公が天窓に見た鬼はまだそこまで登れない。 違う光景が見える。まっくらな中に、かすかにうすぼんやりとあかるい雪洞に、その鬼はうずくまってる。雪洞から、出られないでいる。
この鬼は、まだそんなところに居る。
こっちへ、早くおいで。もうすこしだよ、もうすこしだから、そこから出ておいで。鬼。
鬼、そんなところでうずくまっていないで、はやく、フックつけて、こっちへ出て来い(いじめてどうする)。
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HAL&SERENADE
- ・ボーデンハウゼン
- ・トリプレット・カラーズ
- ・悲しみの星〜魔神カルナデスの追憶
- ・オーブン・ビフォー・ノック
ジャケット写真とは異なり、鎌田さん、清水さん、津田さん、高橋さんのHALオリジナルメンバーの演奏。
ティーンエイジャーの時の「コスモスファクトリーの前座」としての演奏だそうだ。 コスモスファクトリーを見に来たお客さんは、HALの演奏を聴いて茫然自失のあまり、最初は拍手もなかったそうだ。
その衝撃を、体感できたその時のお客さんが、うらやましくてたまらない。
・ボーデンハウゼン
規則正しく神経質な禍々しさ。HALの楽曲には情景を感じない。初めて聴いたときも、今も、まったく同じ感想だ。
聴いていると、リズムに合わせて、幾何学模様が現れては、消えていく。それが実に心地よい。
無機質に現れては消えていく。何かを見せられているのではなく、こちらから、何か、を見に行きたくなる。
そこに浮かぶのは「景色」ではない。幾何学模様が浮かんでは消える。
そこへ、加速をつけて、いきなり生身の人間が出てくる。でも現れては消えていく。手をつかみたい、腕をつかみたい、何かを答えてほしい。しかし、ふりきられてしまう。
それから不意に笑い声がひびく。笑顔ではないわらい、正確には笑ってみせるポーズで、また背を向けて走り去っていく。
今見たものは、いったい、なんだったのだろう。まるで暗黒の美術館へ迷い込んだようだ。見てはいけない世界へ足を踏み入れてしまった。そして、それが、実に、心地よい。これが、自由、というものか。
電流が、流れる。
・トリプレット・カラーズ
ギターにどこかへ連れて行かれてしまう。ベースにどこかへ連れて行かれてしまう。ドラムにどこかへ連れて行かれてしまう。そして、キーボードにどこかへ連れて行かれてしまう。それで、この演奏しているひとたちは、その「どこか」を果たして知ってるのだろうか。
・悲しみの星〜魔神カルナデスの追憶
『トリプレット・カラーズ』から連れてこられてしまった「どこか」がこの、悲しみと不安の星なのだろうか。
でも、連れてこられてしまったこの星に、前にも来たような気がするのは、なぜだろう。 悲しみと不安に満たされていると、不意に明るいなつかしさに、安堵する。この音の太さ、リズム、ギターが滑る、流れていく、花が浮かんでは消える、星が瞬いては消える。HALが見せるのはいつも、その花が、きれいだ、ではなくて、花弁の透ける向こうにある何か、みつばちが花粉を運んでそれがまた違う生命になる何か、星の瞬きはただの憧れの宇宙ではなくて、その先に存在するまたべつの生命とか、そんな内省的な思いを一瞬のうちに浮かんでは消える花や星で見せる。
HALの楽曲には、「景色」は、無い。私には見えない。そして、なんとその「けしき」の無いことが心地良いことかと、この曲を聴き終わって、つい笑みを浮かべている自分がいた。
・オーブン・ビフォー・ノック
ほかのHALの曲と違って、単純に「かっこいい」と感じた。ロックだ、ロックだ!ギターもドラムもベースもキーボードも!ここに、10代の津田さん高橋さん桜井さん鎌田さんが居る。何も考えずに、酔うかな。
10代の頃のロック!への躍動感に。エネルギーに。
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othermatrials
インカなど
- ・マルデクの残滓
- ・竹光る
- ・浪漫風
- ・ブルー
- ・あかねさす
- ・海からの手紙
- ・ファーム
- ・最初で最後の戦い(ジェルバーナのテーマ)
新月
- ・新幹線
- ・最後の朝ごはん
- ・武道館
- ・赤い砂漠
その他のセッション
- ・AMEBA
- ・海にとけこんで
- ・ヒロトウビ
・マルデクの残滓
津田さんのギター。そこには、小さな宇宙がある。そこにある宇宙からちがう宇宙へ津田さんに連れて行かれてしまうみたい。
・竹光る
曲の感想とはまた別に、たけひかる、と言葉にだすと、なんとも言えないあまずっぱいような、ほっぺたの奥がすっぱくなるような、そんな感傷がある。
当時の新月ファンには、やはり、これは「出なかったセカンドアルバム」だからだ。
新月資料室に掲載してある、小さな囲み記事で、「セカンドアルバムのタイトルは”たけひかる”になるということであるが、はっきりと決まってはいない」とあり、でも、これを当時目にしたわたしたちは新月のセカンドアルバムは「たけひかる」なんだ、ときめつけて、どれほど心待ちにしていたことか。だから、この新月ボックスのなかに「竹光る」のタイトルをみつけて、どれほど安心したことかわからない。
やわらかなあさもやのなか、ぼやぼやとした空気、季節は春がふさわしい。きらめく竹の葉がかさなっては揺れる。津田さんのギターは、じめんからなにかを吸い上げて、花本さんのきらめくキーボードが、きんいろに光る竹のなかへ何かいのちを吹き込んでいるみたいに聴こえる。
竹、ひかる。何がひかっているのだろう。覗いてみたいけれど、まだ、見に行かれない。
・浪漫風
美しさでは、新月の曲中、もっとも美しい曲だと思っている。こちらは秋。
この曲が、インカ帝国の芝居で、ステージに作られた竹林の中で、津田さんと花本さんが実際に演奏されたというのを聞いたのは、ずいぶんあとで、初めて聴いた瞬間、すぐに竹林のイメージが湧いた。 曲のちから、だと思う。
敷き詰められた、うすちゃいろの竹の葉が何層にも重なって、それを踏みしめながら、竹林の中を歩いていくと、目の前にかさなってはわずかな風に揺れる竹の葉が動くたび、その間から、きらきらとした陽の光が、砕けては、まだ葉の影に隠れる。
わたしはどこへ行こうとしてるのだろう。美しい女声コーラスが聞こえる。そちらへ行きたいけれど、もしかしたら、それは海の向こうに住むという、セイレーンの歌声にも似た竹の精なのかもしれない。なぜか、空を見上げたくない。
竹林から、でられない。なんてきもちが良いのだろう。 でもそれなら、それでもいいか、美しい竹林の中に、こうして、とらわれていても、いいかもしれない。
だけど、不意に出口はみつかってしまう。 竹、ひかる。ひかる竹を覗きにいかれなかった者は、この竹林から、でなければいけない。そして、ひかる竹を求めて、また、この竹林へむかう。永久に。
・海からの手紙
この曲を聴くと、凪の夜の海に月の光だけ受けて静かにちいさなさざなみがいくつもきらきら光る光景と、見えないけどその上を撫でる空気が動くのがうかぶ。
この曲の海は、凪だ。たぶん、夜の海。
満月のあかりだけを受けて、細かくくだけた光が散りばめられた、ちいさな波が微かに揺れる海面を撫でて、潮の香りを微かにふくんだ、やわらかな風が目の前を通り過ぎていく。
遠い、遠いところから来た、海からの手紙。
なぜだろう。海、なのに、波がひく、ざざ、ざざ、という音も聞こえるのに、なぜか、二次元の世界のように感じるのだ。
このタイトルの、「手紙」という言葉にとらわれているからだろうか。
学生のころ、一度だけ、海で夜光虫が光るのを見たことがある。
家からは海は見えなくて、ほんの数分だけど、道路を越えて、浜に降りて、ぼんやりするためだけに(そんなことわざわざしなくても、もともとぼんやりしてるんだけど)、夜、海、に行った。
そこで、浜辺に打ち寄せては引く波が描く弧の内側が、そう、いまは町でも見ることができる、発光ダイオードの、当時は夢みたいに見えた、青い光が波の動きにつれて、揺れては、また波に巻かれ、漂っていた。その美しさに、息を呑み、わたしは、しばらく、茫然としていた。
"かつて見たことのない絵"が描かれた、さしずめ、海からの絵手紙といったところだろうか。海、は、たぶん、いつも見ていれば、間々そんなことをしてくれるのだろう。飽きない
・新幹線
この曲で、なんだかふしぎなのは、新幹線て、あっという間に走り抜けるのりもの、なんだけど、そこに見える景色は、のんびりした在来線に乗って、缶ビール片手に、ぼんやりと車窓を眺めてるようなスピードなのだ。でもでも、リズムはあの新幹線の知ってるスピードで駆け抜けていく。
でも馳せる思いは、ああ、「閉じ込めてきたあの夜」だから、スピードをあげて、過ぎ去っていくものではない。
この新幹線のスピードは、地を走る現世のスピードと変らないように、きっちりセットされてるのは、新●月ではない新月の、このドラムのためなのだろう。電車の振動がひびく。
そこに満ちてきたものは、目に見えない次元を超えた速度ではいりこんできて、でもわたしには、のんびりとした景色にみえるような、窓から手を出したら、ひょいと星をつかんでしまえそうな、この新幹線に、乗りたい。でも、この新幹線の行き先は・・・いったいどこなのだろう。
「モノレールは寂しそう 一本だけの線路で走る」のフレーズが、すごく好き。
・最後の朝ごはん
「朝もやの」。
この最初の言葉とメロディだけで、もう、目前に灰色がかった白っぽいもやの向こうに、土手が見えて、草いきれがたちのぼってきて、まだ明けきらない空の下、くろっぽい川のさざなみが見える。
この主人公は、もしかしたら、このまま、ETの自転車みたいに空へのぼって、それから、あの「新幹線」に乗ってるんじゃないのかな。最後の朝ごはんの卵焼き、しょっぱい卵焼きだったらやだな、甘い卵焼きがいいな。
・武道館
もちろん、北山さんのソロアルバム、「光るさざなみ」収録版をすでに聴いていて、大好きな曲。ソロ版は、武道館その場にいて、そこから離れてくリアルな臨場感がある。
こちらは、北山さんが、どこかの部屋で、弾き語りしながら、すでに「思い出」として過去を語ってるように聴こえる。
歌詩の中にでてくる、「パンフで作った紙ヒコーキ」、「足跡だらけのチケット」、それから「コーラの泡がひとつ 胃の中で はじけた」という部分が「時計台の下には寄り添う紙コップ」、という小道具が、くっきりとしたアクセントとして、思い出へのスイッチを押す。思い出のなかを漂うのではなくて、すでにすこし距離を置いたあの日の武道館。 もちろん、北山さん以外に、この武道館を誰も歌えないと思う。
・赤い砂漠
何もしらず、たとえば街でこの曲が聞こえてきたとしても、まさか新月の曲とは思わず、北山さんの歌声を聞いて、あれ、北山さんどこかのバンドでゲストで歌ってるの?でもあれれこのギターは、つ、津田さん?あれー??って、??がたくさん飛んでしまうだろう。 津田さん作曲となれば、なにかその裏側にあるのではないか、とつい疑って(良い言葉がみつからない)しまうのだけど、アップテンポで、ストレートな「ロック」だ。楽しい、ロックだ。でも、新月じゃない。
『新幹線』『最後の朝ごはん』そして、この『赤い砂漠』と新月の3曲って、性急にどこかに突っ込んでいくような感覚を覚える。何かを急いでいるように聞こえる。
そして、この『赤い砂漠』。
すでに第三期新月はバンドの形をなさず、残った3人のメンバーも、試行錯誤を繰り返しながら、すでに、違う活動と同時進行しながら、活動を続けていたと聞く。
この津田さんのストレートな明るいロック、は、ファンからしてみると、皮肉なことだけど、「新月」の看板・呪縛から徐々に解放され、新しい道へとあかるく踏み出していこうとする、謳歌のように聴こえる。
わたしには、むしろ、この曲こそが、白鳥の歌のような気がするのだ。
だから、これは勝手な想像だけれど、復活ライブのちらしのデザインの下の部分が「赤い砂漠」であることが、とても嬉しかった。
あ、これ日記になっちゃった。
・AMEBA
これ、カッコいい!以外の言葉は出なかった。凶暴な心を持った機械と、あったかな自由な心を持った人間とのセッション?機械に妥協はする気はなくて、人が近づいていく、
機械は拒絶?
それとも、相容れるのか?
しかし、お互い背を向けて演奏していても、音は絡み合っていく。心が通い合っていく。最後には、目を見交わしあって微笑んで、リズムに体がゆれるのを、おさえきれない。
AMEBA。最高!
・海にとけこんで
新月でもなく、セレナーデもでもなく、でも北山さん花本さん高津さん小松さんが参加して、破天荒の阿久津さんが参加していて。
魔法。歌詩だけ読んでいると、ふつうの失恋の歌のようなのに、北山さんのメロディ、そしてこの北山さんの歌声にかかると、なぜ海からはるか世界が見渡せるような気になるのだろう。花本さんのピアノがあかるくでも、切なく、そしてそして、やっぱりここでは高津さんのギターソロが胸に、胸にひびく。高津さんのギターが、目の前に、くっきりと、波がいくつも寄せては返す海を見せてくれる。青い、海がそこにある。
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・ヒロトウビ
今朝もどこかで、この校歌が歌われているのかな。上野さんの透明で美しい歌声が、ほんとうに心洗われるようで、朝の爽やかな空気にぴったりだと思う。>
しかし、なぜかわたしは、花本さんの歌詩を、読めば読むほど「鬼の花本」の名が頭から離れない。めざす美がほんとの芸術でないと、芸術の鬼、花本さんの逆鱗に触れるとかお怒りになるとか。なんでボックスのアルバム最後のしめくくり感想が、鬼の花本、なんだ。
DVD
- 鬼
- せめて今宵は
- リハーサル風景
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