- ストラトのつまみ
高津昌之:
目黒区民会館で行われた、HALと共演したコンサートで、私はギターの弦を切ってしまいました。
急遽、津田君のストラトを借りて凌いだのですが、ボリュームつまみの位置が、私の右手のすぐ近くなために、弾いているうち指がつまみに触れてしまい、どんどんボリュームが下がっていく…。
あせりました。最初は原因が分からなかったので。
私にはストラトは不向きなんだと知った次第。
でもあの音色は捨てがたく、後々ストラト(コピーモデル)を購入し、つまみをセロテープで固定して使用しています(笑)。
こんなアホなことをしているのは私だけかと思いきや、ハノイ・ロックスのギタリストが、やはりボリュームノブに右手が触って、だんだん音量が下がってしまうのでセロテープで固定している、と言っているのを1年ほど前に「Player」誌で読みました。
やっぱりいるんだ、オレみたいなの。と安心(?)した次第です。
ということは他にも大勢(かどうかは分からぬが)いるよね。
おんなじことしてる人この指とまれ!(笑)」
(18/sep/2008)
- Too Young to Blues!
長友冬樹
花本さんたちとは福生の、いかにもアメリカ人向けハウスという、
平屋で練習していました。
当時、夏季休暇に入ったばかりの私は渋谷のヤマハでバンドメンバー募集の貼り紙を
みつけました。
さっそくメモして、もちろん携帯電話などない時代なので、横浜に戻り福生の花本さ
んにTEL.したのがきっかけです。
そしてコンサート自体のタイトルは『金で買える夢』で、雑誌ぴあで見たときになんだかちょっと変なタイトルだなぁと思いました。
入場料金は\600-だったと思います。
そして確かコンサートの一週間くらい前に新宿東口の『談話室、滝沢(たきざわ)』という喫茶店で出演バンドみんな集合ということで集まりました。
何故、『談話室、滝沢(たきざわ)』だったのかは、わかりませんがきっと広いスペースと何時間でもokという店だったからかな?
その『談話室、滝沢(たきざわ)』も2005年に閉店されたようです。
なにか、昭和の1ページが消えていくような気がして不思議です。
たしか目黒のコンサートの準備で、“Starless and Bible Black” を練習していたときはサックス奏者も一人サポートメンバーで入っていた記憶があります。
本番のときはどうだったのかな?
“Soul Love”では、花本さんがサックスのパートをシンセで弾いていたように思います。
北山さんの歌う♪スパークスの “ Never Turn Your Back On Mother Earth/家へは帰れない” はとても良かった!
花本さんのメロトロンも(Gm〜Dm〜Am〜Em)ところなんかレコードで聴いていた音がそのままを再現されてビックリ!
高津さんのギターソロ(間奏)も♪ミック・ロンソンばりで甘く力強くて良かった!
そういえば花本さんが、もうすぐ(練習場のハウスに)やって来るギタリスト(高津さんのこと)は、ジョン・デンバーのような美声だと言ってました。
高津さんはいまでもあのテナーヴォイスを保っていらっしゃるのかしら?
高津さんはジョン・デンバーにちょっとにてるでしょう!?
ご存知のとおり、あのカントリー・ロードを歌っている人です。
なので、花本さんがジョークで言ったんですよ。
『もうすぐ、ジョン・デンバーみたいな人がくるよ・・・』というニュアンスと思い
ました。」
セレナーデのコンサート後に一度だけ、牛浜に残っていた小松さんを訪ねたことがありました。
その日は小松さんが「赤坂でバンドの仕事がある」とのことだったので、私の車で赤坂まで送っていきました。
「チャーリー・ワッツのドラムはいい!」」とか、そんな話しをしながら・・
※最近♪スパークスの「プロパガンダ/恋の自己顕示」のCDを紙ジャケで見つけて買いなおしました。
(20/july/2007)
(番外編)
花本さんや、新●月掲示板で北山さんがおっしゃっているように、なぜ「いつも椅子から転げ落ちて」いらっしゃたんですか?のころんたの、ぶしつけな質問にも答えていただきました。
ひとつはよく覚えています。
北山さんの熱唱するデヴィッド・ボウイの “ Soul Love ” という曲で、私がピア
ノの椅子に座りながら手拍子をやった(やらされた?)際のことです。
自分にはなんだか恥ずかしいなあという気持ちがあって、それを払拭(克服)
しようとしたときに背中が壁のない空中に寄りかかって落下したんです。
決してドリフのパクリではありません。
- ギターの音色
高津昌之:
津田君が「島へ帰ろう」で、私のギターの音色をコピーした、と言っていましたね(私は去年の新月コンサートの折に彼から直接聞いた)。
ひょっとしたら、"「島へ帰ろう」は、私のフェイバリット・ソングである"と書いたのを読んで、遊んでくれたのかもしれませんね。何にせよありがたいことです。
ところで、さすがだな、と思うのは「ワウをちょっと踏み込んだようなトーン」というような表現をしていたことです。
大当たり!!
実際に私は、ワウ(クライベイビー」をトーンコントローラーとして使っていたのです。しかも、まさに「ワウをちょっと踏み込んだところの音質」が気に入って、それを歪ませて、自分の音としていました。
セレナーデ後は、お気に入りのオーバードライブとワウとノイズゲートをひとつのケースにまとめ、さらにそれを充電式にしたものを作ってもらい(エレクトロニクスに強い2人の手をわずらわせた)、私は「タカトロニクス」などと呼んで悦に入っていました。
しかし、それも2〜3年で壊れてしまったので、以来、その音は失われたものとなっていました(ショボン)。
ところが、最近、花本君が、ワウとノイズゲートを「録音に使って」と、私の許に送り届けてくれたのです(花本君、ありがとう!!)。
なので、新録音曲は、当時の音に少し近くなっているかもしれません。乞う、ご期待!!
(25/Apr/2007)
- ライブの助っ人キーボード
花本彰:
セレナーデの事実上のラストコンサートでサポートキーボードを務めたのは、長友冬樹という人でした。
たしか横浜に住んでいたような気がします。
演奏中によくイスからころがりおちていました(笑)。
そのコンサートでは有名プログレ曲のメドレー「プログレの逆襲」と高津北山共作の俗称「ドッテテ」(2007年に出る?高津ソロに入るかも)、そして「回帰」を演奏したような。
競演したHALは一連の曲の他に津田作の「巡礼」(未発表)をやりましたな。
こちらのキーボードは津田裕子さんでした。
(9/Mar/2007)
- メンバーの印象
桜井良行:
高津さんは笑顔とロックギターらしい粘りのあるいい音出してたという印
象です。
小松さんはワイルド、パワフルな気持ちいいロックドラムでした。
たしか、あのライブの時にはもう一人サポートキーボーディストがいたと思うのです
が、ガラパゴスのギターリストが就職した会社にその人がいたらしいです(ちょっとうる
憶えですが)。
いつもジンベ姿でキャリングカーにシンセを載せて横浜の方から来ていたと思ったの
ですが。
(6/Mar/2007)
- 夏場の練習
桜井良行:
その他セレナーデの思い出では、夏場の練習が暑くて大変だった事です。
重いハードケースに入ったベースを持って駅から坂道を20分ほど
登っていくのがきつかった。 おまけに日陰がない。
そして、練習部屋がまた暑い事!ベースのポジションは押入れでした。
駅でハードケースを見たおばさんに「木琴ですか?」と聞かれたこともありました。
セレナーデが自由度が高かったと言う事は感じました。
こういう風に弾いてとかは一度も言われなかった気がします。
ですからヘンな事弾いていた気がします。
(7/feb/2007)
- ハナつまみ
桜井良行:
HALを辞めてから約6ヶ月か7ヵ月後に、8月に行われたセレナーデのラストライブの手伝いもしましたがいい思い出になりました。
最初花本さんから電話があって渋谷で会うことになったのですが、初対面でしたので目
印はと聞いたら花本さんがハチ公の鼻をつまんで待ってますというので半信半疑で行ったのです。
本当に鼻をつまんでました!
周りで待ち合わせをしている人達は変なやつと思っていたに違いありませんが、私は
凄い人だと感心したのでした。
ライブ本番の事はセレナーデのメンバーに聞いてもらえばわかると思いますが、鈴木
さんの代役にしてはお粗末様でしたと今も思っています。
一発間違えた時に北山さんに目で怒られたのをよく憶えてます(笑)。
この時2つのバンドの合併話が何処まで進んでいたのかはよく分かりませんでした
が、合併に賛同し推薦したのは憶えています。
森村君や清水君はまだ私の友人で新月人脈とは別のカテゴリーだったのが
いつの間にか同じカテゴリーになりこんな大きなバンドになるとは考えてもみなかっ
たことです。
そして30年も経って自分のところにまた帰って来たのは不思議です。
(2/nov/2006)
- 会場名のなぞ
高津昌之:
銀座でやったライブの時は確かに桐谷君のバンドも出演したのですが、その時の桐谷君バンド(バンド名思い出せず)のキーボードプレーヤーが白木材のキーボード(アップライトビアノのような)を使用していたのが印象的でした。
会場名は私の記憶では「スリーポイント」というライブスポット、清生君の記憶では「十字屋」だそうです。なぜにそんな違いが?!
(14/feb/2007)
- 一人アテレコ
高津昌之:
当時かなりウケた私のギャグのひとつに、テレビの音声のみを消して行う「一人アテレコ」があります。
覚えているのはヨーロッパの中世を舞台にした映画でのやつです。
騎士に市民が何やら懇願している様子でした。私は二人を大食いの客とラーメン屋の親父として吹き替えました。
もちろん全てアドリブ。
「お願い申し上げます、ギョーザ10皿とニラレバ炒めとチャーシューメン大盛りのお代を頂きたく…」
「そんなに食したかのう」
「はい、ときどき隣の席のかたのシューマイも盗み…いえあのお断りなしに。とにかくお支払いの方を…」
絵はだんだん騎士が怒りだしてきています。
そしてついに叫びます
「やかましい! ツケじゃーっ!!」
もちろん、これをオチにしようと待ち構えていたのですが(やはり受けた)、このあと市民はなんとなんと理不尽にも斬り殺されてしまったのです!
意外な展開にみんなますます大笑い。(残酷だなあ(;^_^A)。
(11/nov/2006)
- スーツ
高津昌之:
コール田無のライブで評判の良かった私のスーツは、2年ほど前に若くして病死した米沢在住の友人の形見なんです。
写真・音楽両面で趣味が合い、帰省するたびに彼の部屋でセッションし、「いつか米沢に戻ったら一緒にバンドやろうぜ!」と誓った仲でした。
いまだに涙に暮れている彼のお母さんが「ぜひ着てやって」と、この春下さったもので、あのとき初めて着用しました。実は先日のオフ会でしていたネクタイもそうだったんですよ。 ちょっとウェットですが、まあ、悪くない話でしょ?
(11/nov/2006)
- 音楽のルーツのお話。セレナーデメンバー、高津さんはビートルズ、小松さんはベンチャーズ、鈴木さんはジャズ、へと原点へ戻って今活動しているので「北山はボブディラン、というのもありますね」そして、「花本も原点に帰ってディープパープルをやるでしょう。わはは」とのこと。おおおっ!!。
(3/nov/2006)(文責ころんた)
- 「なつかしいムーン」「うれしいムーン」「悲しいムーン」「淋しいムーン」
高津昌之:
「シームーン」。北山の一人二役説が飛びかう山田某氏の名曲です(新月メンバーについて 参照)。 ふっふっふ。最近花本とのメールの際に当時の爆笑のもととなった言葉(もちろん我々の中だけでの)をタイトルにしておるのですよ。 「私的レトロ」とでもいうのですかね。大笑いしながらやりとりしています。
(02/nov/2006)
- アルバトロス
高津昌之:
一昨日はセレナーデ以前に参加していたバンド(アルバトロスといいます。ドラマーとは今も親交あり。その前の私のバンドのドラマーでもあった)のライブに行き、24年ぶりに旧交を温めてきました。
10人入れば一杯(!)という小さい店で、私もステージに引っ張り上げられ、ビートルズ他を何曲かやらされましたが和気靄々として楽しかったです。
B,Voはチャック近藤といい「ビートルズを5万回歌った男」として著書もあるビートルズのオーソリティです。
その近藤氏とは後に六本木の「キャバーン」で開店時(1982)から何ヵ月か一緒にビートルズを歌った仲です。
店があつらえた、あのビートルズの襟なしジャケットを着て演奏しました。
花本、北山も聴きにきてくれましたね。
「キャバーン」はもちろんリバプールの「キャバーン・クラブ」から取った名前です。私はすぐにやめましたが彼は8年数ヵ月続けたので「〜5万回歌った男」の異名がついたのですね。
(24/oct/2006)
- セレナーデの猛練習は「バンド内セラピー状態」(新月史参照)となるために、住居と練習場が一緒になった福生のハウスへ、花本さんと小松さんが一緒に住むことになり、高津さんはセレナーデに参加するにあたり、高津さんは、さすがに住居と練習場が一緒なのは(起きたら練習。帰ったら練習!生活のほとんどが練習!)、ちょっと、という事で、小松さんがそれまで住んでいたアパートへ移り住み、練習場へ通うことになったそうです。
鈴木さんは府中、北山さんは浦和から通っていたそうです。
夜、練習して翌日も練習するために、鈴木さんと高津さんが花本&小松家?に泊まって、ベットで花本さんが寝てるその下の床に、2人でジョークジョークで、笑いながらずっと夜更けまで話していると、よく、「上から花本くんが、あした学校があるからもうかんべんして〜」と、おっしゃっていたそうです(高津さん談。文責はころんたにあります)。そうか、SERENADEも学生バンドだったんだ。
(10/sep/2006)
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セレナーデ関係者以外誰にもわからない「うひょっ、なつかしいムーン」”という言葉があるそうです。(花本さんより。文責ころんた)
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