遠い星

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遠い星


わたしの手元に、一本の古い帯がある。
格が高い帯で、なかなかそんな機会がまだないので、まだ一度も外へ締めていったことはないが、いつか一度は締めてみたいと思っている。
祖母から母から、そしてわたしへと受け継がれた一本の帯であるが、この帯を取り出して見るたび、わたしに至るまでの、祖父母や父母や叔父叔母たちの歴史を感じる。
1907年生まれなので、今年は祖母の生誕百年になる。
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 「白州正子自伝」の中に益田鈍翁さん(三井財閥創始者益田孝。男爵。小田原三茶人のひとり。他2名は野崎幻庵 三越呉服店社長、電力の鬼と言われた松永耳庵。茶号鈍翁。昭和13年没)の小田原の別荘の写真が掲載されている。

 ここは1906年から造営された敷地3万坪の小田原板橋の掃雲台で、山全体が別荘であり、茶室・お屋敷がこの掃雲台にあった。

「鈍翁」という茶号は「人間は鈍でなければならない。要領のいい小利口な人間になるな。鈍こそ人間の理想だ」とう自ら鈍の号を用いるようになったそうだ。

 わたしの祖母は、わたしや叔母たち(母だけは引越しに伴い違う高校)の母校でもある小田原の女学校(当時小田原高女)を卒業し、この益田家鈍翁の品川御殿山の本宅へ行儀見習いへ出ていた。
NHKの朝のドラマ「あぐり」を観たことがある人なら、主人公が行儀見習いへ出る場面を思い出すかもしれない。行儀見習いは、女学校を卒業した者でなければ資格がなかった。

正子さんは、鈍翁さんを、子供の頃からおじさまと呼んで、可愛がられていたという。
これは漠然とした想像で、全く根拠がないのだが、もしも正子さんが御殿山や、小田原の別荘に遊びに来られていたら、正子さんより3つ上の祖母は、年の近いお嬢様正子さんに、かたや奉公人として、お茶を出したこともあったかもしれない。そんな、一瞬の接触があったら楽しいな、と思う。これは、自分が向こうへ行ったら、直接祖母に聞いてみようと思う。

ここで、祖母は、鈍翁さんの書生だった祖父と結婚し、わたしの母や叔父叔母が生まれた。
御殿山の邸(現ビルマ大使館)は約一万二千坪。応挙館(現在上野へ移築)と呼ばれる襖・壁といたるところ円山応挙によって描かれた贅沢な建物を含む、益田家本邸を中心にそこに仕える人たちの、今でいう社宅である家が点在していたという。

大正八年、この品川御殿山の応挙館にて、「絵巻切断事件」がおこる。
国宝「佐竹本 三十六歌仙」(鎌倉期:現存する最古の歌仙図)の絵巻物が佐竹家より売りに出され、あまりの高値に一人で購入出来ないため、絵巻物を切断して一枚一枚切り売りにされることになった。
絵巻物の処遇について相談を受けた鈍翁さんは、これを一人で購入できる者はいないため、切断を決意したという。文化財保護法がない時代とはいえ、益田鈍翁の威光がなければ、世間を納得させることなど出来ない決断だったそうだ。

切断というと刺激的な言葉だが、巻物は1枚1枚描かれた絵を張り合わせて巻物にしていくので、実際は、「剥がされ」て一枚一枚ばらばらにされていた。
切断された絵巻物は、最も高価なものは当然色鮮やかな女流歌仙で、斎宮女御、伊勢、小野小町である。誰もが高価であっても、当然女流歌仙図を欲しがり、購入はくじ引きとなった。

応挙館にて、青竹を切って作られた抽選の筒に、真鍮の棒が入れられ、抽選が行われた。みんな、緊張のあまりなかなか息が揃わなかったそうだ。
しかし、なんと世話役である鈍翁さんに、一番人気のないお坊さんが当たってしまい、ここでたちまち鈍翁さんは不機嫌になってしまい、結局みんなで話あって一番人気の斎宮女御が鈍翁さんの手にはいることになり、そこでたちまちゴキゲンが治り、みんなでごはんを食べて行ってくれ、となったという。

祖母は、鈍翁さんが、お坊さんをひいて機嫌がわるくなったことなどは知らかったそうだ。
益田鈍翁史については、掘り下げていったら際限がないので、鈍翁さんについてはこれまでで、祖父母や母達の話にもどす。

この品川御殿山では、母達が住んでいた家は本宅の一部で、いわゆる留守番住まいであった。
奥には広間が二つあり、回り廊下も畳敷きで、予備の部屋が二つあり、時折、古美術商や茶道具屋さんが集まったり、謡曲や、仕舞いの稽古場であったり、執事が詰めており、祖父もここで謡を習っていた。
母たち、つまり子供たちはやたら、入る事は出来なかったそうだ。
結婚後も祖母は、なにか催し物や来客があった時、手伝いに行っていた。

祖父は益田家の書生をしながら、経理の勉強をし、邸内にあった益田農事のバレーミール(今のオートミール)の小さな製造工場を任されていた。 その後、三宅坂平川町にあった益田農事の事務所で小田原に移り住むまで経理の仕事をしていた。
お客さまが来たときのお手伝いに行っていた祖母は料理好きで、益田家の料理人にいろいろ料理を教わったり、見て覚えたりして、当時としては珍しい、バターを使った料理をこどもたちによく作ってくれたそうである。
そして祖父の仕事柄、オートミール、そしてコーンフレークなどがしばしば朝食にのぼり、食生活は「ハイカラ」だったという。

祖父はいわば、勤め人であって勤め人でないような立場だったから、比較的自由がきいたため、母達の授業参観には、祖父が来てくれたことが多かったらしい。6人の子育てをして、髪ふりみだして、着のみ着のまま駆けつけてくる祖母より、きちんとスーツにネクタイを締めた、「かっこいいおとうさん」に来てもらったほうがうれしかったそうだ。

私の叔母である母のすぐ下の妹は、子供時代は豊かで、暮れには、今でいうボーナスとして、デパートの商品券が支給されたので、デパートに連れていってもらい、いろいろ買ってもらったこと、また、お出かけの時は皮の靴を履いて、きれいな洋服を着て、フェルトの花のついた帽子をかぶったことなどをよく覚えている。そして、鮮明な記憶は、おでかけの時、いちごクリームを食べておいしかったことだそうだ。

叔母は、お客さんが見えると精養軒から、鯉のから揚げあんかけなどを取って、おもてなしをたこと、家はとても広くて、大きな台所、居間、玄関、その横の部屋のことや、そして、中庭には大きなピンク色の八重椿が咲いていて、少し、向こうの方に広い原っぱがあって、そこで良く遊んだことも覚えている。

しかし、この豊かだった子供時代を覚えているのは、この叔母までで、そのすぐ下の妹、また戦争が始まってから生まれた弟、一番下の妹は当然そんな記憶はない。

そして、この叔母が言う「いちごクリーム」なるもの。母によると、これは、ただ、うつわに入ったいちごに、練乳をかけただけのもの、だったそうである。品川駅のそばのパーラーのようなところで、食べさせてもらったそうだ。
それまで、きれいな服や帽子をかぶって皮の靴はいて裕福だったのだから、もっと美味しいケーキやおやつがあったはずなのに、どうしてこれが、そんなに叔母にとって、印象深かったのだろうか。

それはすでに、戦争が始まっていたから。
もう、ほとんどものの無い時代、いちごに練乳をかけて食べる、それがどれほど贅沢なことだったか、だから、いまだにこのいちごクリームのことを覚えているのだった。

祖母達は、昭和13年に鈍翁さんが亡くなった後の昭和19年まで品川御殿山に住み、それから小田原に移り住んだ。当然、戦火激しい頃である。

余談だが、わたしの父の祖先は江戸時代埼玉から小田原にやってきて、旧東海道に面した現在の場所に移り住んで来た。
旧東海道から箱根へ向かう、現在のタクシーにあたる、駕篭かき屋の隣で、くもすけさん相手に、居酒屋を営んでいた。
ちなみに、現在、この駕篭かき屋の正面にあるのが、タクシー会社で、数十年間営業し続けている親切な会社である。

正しく過去帳で調べたわけではないので、あくまでも言い伝えではあるが、この居酒屋の看板娘が当時の小田原城主大久保氏のお城に奉公にあがり側室となった。

この時大久保氏の「大」を抜いた家紋をいただいたのであるが、それをそのまま使ってはもったいない、という事で、紋をさかさにしたのが、わたしの家の家紋である。
着物に紋をつけるとき、紋帳にないので、特注になって面倒だと、母がよく文句を言っていた。

何年か前に、母がじぶんの着物を、わたし用に染め替えてくれた、イスラム的なブルー、という色無地の着物にも一つ紋をつけてくれたのだが、母は、もうめんどうくさくなったので、似たようなのをひとつ選んでつけたと言っていた。
先祖の位牌とか、母の紋と比べると、たしかにちがういんちきだ。

ただし、先祖代々猫の額のようなところに住んでいるので、たとえばお世継ぎを生んだとかそんなお手柄がとくにあったわけではなく、単なるお手つき上臈だったらしい。
ちなみに、江戸末期にこの家は血筋が絶え、夫婦養子をもらって、現在に至っているので、この、美しかったか、かわいかったかもしれない側室にあがった娘の血は、残念ながら、わたしの中には一滴も入っていない。

父は、子供時代、慣れない商売で呉服屋を始めた祖父について、大八車を押して箱根まで行かされたこと、この商売が、大失敗したこと、戦争中、もう、食べるものがなく、祖母に連れられ、田舎の親類に行き、辛い言葉をなげつけられながら、たべものを交換してもらうため、祖母の着物がいちまいいちまい、減っていくのを見ていた気持ち、を1,2回だけ語ったことがある。これは、当時同じような経験をした人たちの共通の思い出で、また、はんたいに、こんな時にだけたよってくる親類、とそちらがわの人たちは、思ったかもしれない。
戦争がなければ、ふつうに付き合っていたのではないだろうか。

母達が小田原に移り住んだ頃、父は学徒動員で、火薬廠で作業についていた。爆撃を受けて、友人が目の前で死んだり、腕を吹き飛ばされているのを見ている。
終戦を迎える月のその数ヶ月前、ミーハー軍国少年だった父は、航空隊にわざわざ志願し、すでに紙ヒコーキのような飛行機程度のものしかなかったこと、そして、入隊を決める健康診断の時、隊列を組んだあこがれの海軍の白い制服に七つ釦の、先輩達がすれ違いざまに、耳元で、「帰れ」「帰れ」とささやいていくのを、教官たちが、慌てて分けに来たこと、父たちと何人かは一計を案じて、戻ってきたこと、いまだに思うのは、その先輩達は、特攻隊として、戦地におもむく人たちだったから、すでに、同じように志願してきたひとは、そのなかで後悔していたかもしれない、あるいは、そんな戦局のなかまだ、せめて自分たちより年下の少年たちが過ちを犯さないよう、じぶんたちは、いのちを落とすけれど、せめて一人でも多く生きて返したかったに違いない、だから、教官たちの目をぬすんで、危険を冒してまで、助言してくれたのだ、と未だに時折、述懐している。その人たちのおかげで、生かされているのだ、と言う。

すでに益田家は鈍翁さん亡き後の2代目益田太郎さん(益田太郎冠者。実業家・音楽家・劇作家。コロッケの歌で有名)も亡くなった後で、3代目の長男克信さんの代になっていた。

わたしは子供の頃、よく母に連れられて、母の実家である、この板橋の家へ遊びに行った。

印象に残っているのは、いつも家へ着くまでの石段の両側に満開のまっしろいマーガレットが咲き乱れていたこと、桃の花が満開だったこと、海が山の上からきらきら綺麗だったこと。そして、石段の途中から、茅葺の屋根が見えたこと、である。

先日、町田市鶴川の「武相荘」に行って、茅葺の家を見て、あ、と思った。
白州次郎さんが、すでに日本は戦争に負ける、と見越して武相荘の茅葺の家に自ら移り住んだのが昭和18年。
次郎さん・正子さん夫妻は、農業をやり、いずれ、疎開してくる友人たちを迎える準備のために農家を購入した。

祖母や母達が品川から戦火に追われて小田原に移り住んだのは昭和19年。

あるとき、ふと、ある疑問が湧いて、母や叔父叔母が集まったとき、聞いてみたことがある。そういえば、なぜ農家でもないのに、茅葺の家だったのか、と。
みんな、ころちゃん知らなかったのと、大笑いだった。

それが冒頭にあげた、板橋の山全体が益田家の別荘で、すでに鈍翁さんは亡くなっており、鈍翁さん時代に移築した双松庵という「茶室」を益田家が改築して、祖父母たちに貸し与えてくれたのだ。

なんと、家だと思っていたのだがそれは「茶室」のひとつだったのだ。
あの天神山全体が別荘だった、という事も始めて知り、ここで初めてわたしは母方の祖父母と益田鈍翁さんとのかかわりを知ったのである。
これが、いまから、ほんの8年前の話である。
母・叔母によると、掃雲台にあった益田家邸内には佛仏堂、明治神宮、水源地、ひょうたん池、滝などあり茶室は、11あったそうだ。外観は和風で、中は洋風。立派な絨毯が引きつめられた部屋があり、大広間、前庭に大きなつくばねがあり、さらに庭があった。家の中は広く、中庭には池があり、鯉が泳いで、覚えてる限り部屋は15あり、離れの洋館と和風館には、よく遊びに行ったそうだ。

益田邸の洋館は外からは見えず、大きな門があって、植え込みの中を歩いていって玄関があり、広い敷地の中に何軒かの従業員用の家があって、その中の一軒が、この茅葺屋根の「家」である。

祖父は、この中にあった益田農場と言う会社の、経理部長だった。祖母はそこで、ジャムや缶づめ、紅茶を作っているところで働き、益田家には、来客が会った時に手伝いに行っていたという。
祖父は、ウラジオストックに臨時電信隊無線隊本部へ赴いている。大正11年2月に撮った写真に列車が脱線事故で怪我をした静夫が頭に包帯をしている写真が残っている。 帰国してから在郷軍人として働いていた。
この天神山からは海が綺麗に見えた。
子供の頃寝付けず叔母に外に連れて行ってもらい、月が海面にうつってゆらゆらゆれる景色や、大きな「サワノツル」のネオンサインが輝くのをよくおぼえている。
そして、この天神山に、日中戦争のころ、鈍翁さんは美術品用の穴を掘らせたそうだ。

戦争になって、爆弾が落ちたら美術品が焼けてしまうからが理由だったそうだ。これは当然太平洋戦争前の話で、当時それを聞いていた、画家である孫の義信さんは、そんなことはないだろうと心の中で笑っていたが、実際、小田原は空襲を受けなかったが、東京方面を爆撃したB29が余った爆弾を帰りがけに、小田原に落としていった。

これは、父の家のすぐ近くにも落ちて、父の家は無事だったが、運わるく落とされてしまった家は火事になってしまった。
その家の人は「火付け」にあったようなもので、本当に気の毒だと父は言っていた。帰り道の遊び半分の米軍の機銃掃射も行われた。
そして、母はB29がたんぼに落としていった焼夷弾が炸裂するたび、不謹慎だが、花火のように美しいと思った記憶があるそうだ。
終戦の前日の話である。

戦後、祖父母はたいへんに苦労した。しかし日本全体が苦労していた。それは平均的な日本人なら、どこも同じだった。

そしてまた、益田家も戦後は農地改革等、財産の没集などあり、かなり困窮し、膨大な茶道具が、連日トラックで運び出されていったそうだ。

そして、鈍翁さんからいただいた、かなりたくさんあった、という茶器・掛け軸は、生活のため、ひとつ、ひとつ、消えていったそうだ。「文字通り、鈍翁さんのおちゃわんで、ごはんを食べたのよ」と母はわらって言った。
そして、母の家は、祖父が病に倒れ、一家は働き手を失う。母は特待生で入学した女子大を中退し、会社勤めを始める。
この祖父の病気の輸血のお礼のお礼のため、残っていた鈍翁さんからいただいた茶器類はすべて、なくなったそうである。

そして、祖父の死により、一家は困窮を極める。
祖母と母だけの収入をたよりに、しかし、祖母の収入だけでは足らず、米を買うお金もなく、わたしの母の給料日を待って、お米を買いに行った事もあったそうだ。
母のすぐ下の、妹である叔母はこの高校時代、胸の病を得る。保険のきかないパスという薬を買ってもらったこと、働きたくても働けなかったことは、いま思い出してもせつない、という。そして、栄養をとらねばならないこの病気なのに、ろくに食べさせてあげることが出来なかったことを、長姉である母はいまも可哀相でならない、と言う。
そして、祖母の苦労は計り知れなかったにちがいない、もっと力になれなかった、ということを、いまもくやんでいる。
この叔母は、きょうだい一の才媛で、高校時代、違う高校の同い年の男の子の数学の家庭教師をやって、家計の足しにしていたそうで、残念ながら、姪のわたしにその頭脳の片鱗はまったく受け継がれなかった。


この時代のことを母や叔母たちに取材した時、この時代のことはもう二度と、思い出したくないと言った。上の何行かだけを、かろうじて、話してくれた。

父のきょうだいも別に仲が悪いわけではないが、コドモの頃から、母のきょうだい仲はずいぶん良いな、と思っていたが、この辛い時期を共に過ごしてきた同志だったから、だという事がこの話を聞いて、やっとわかった。結束が違うのである。

そして、ほかのきょうだいたちがお互いに「〜ちゃん」と名前で呼び合っているのに、わたしの母だけは、「おねえちゃん」と呼ばれてる。兄弟達は、母が高校中退して学費を出してもらった感謝を忘れないといまも言う。

祖母は、祖母は生前戒名をもらった一年後同じ6月17日に亡くなった。死後、遺品を整理していたら、その生前戒名をもらった日付に、亡くなったことをみんなで知った。
正月はふつう、喪中なのに、「おばあちゃんはにぎやかなことが好きだった」と、普通に新年会をやって、どんちゃん騒ぎをやった。集まると、いつもみんな笑っていた。

ただひとつだけ、12年前に下から二番目の、いちばんにぎやかな叔父が52歳の若さで急逝してしまったことを除けば、今はみんな幸せに暮らしている。平和憲法に守られて。

青春時代に勉強をしたくても出来なかったためなのか、父母や叔母達の貪欲?さはすさまじい。今は、あまり出歩けないせいか、せいぜい近場の温泉に行く程度だが、いま、母や叔母たちは60、70過ぎてからパソコンをはじめ、メールで連絡をとりながら、その時代のことは忘れ、これからは楽しい未来のことだけを考えるのだと言いあってる。もっともつらい時代のことは、もう、誰も思い出したくないという、

じぶんのコドモ時代から父母が元気で海外旅行にまで行っていた数年前までを、ふと思い出す。コドモには、むろん海とか山とか冬は、スキーに連れて行ってもらっていたが、普段、父はやすみの日に、釣りに出かけない日は、謡曲をうなり、テレビは練習に能楽百選などを見ていたが、わたしは退屈でならなかった。母は着物を着ては、ささやかな茶器を買い、せっせとお茶のお稽古に通い、歌舞伎座に行ったり、能楽堂に通っていた。しかし、着物を、着てみろと言ったこともなく、歌舞伎や能にも一緒に連れていってくれたことは、一度もない。

たまたま、まだ祖母が元気だった頃、中学だか高校時代に、一緒に薪能に連れて行ってくれたことがあるが、たまたま雨で、市民センターになってしまい、席も非常に遠くてわけがわからず、ただ退屈なだけだった。
その頃、すでにじぶんはロックを聞く事に夢中になっていたし、自分から連れて行ってという興味もなかった。

祖母や母のきょうだいたちは、みんな料理が上手で集まりがあると何かと作ってみんなで持ち寄り、どれも美味しかった。
誕生日やクリスマスには、クリームをつかった大きな海老の料理や、きちんと自分でヴィヨンから作ったコンソメスープ、オーブンで丸ごと焼いた鶏が並んだ。でも、そんなレシピをわたしは、いまだに、受け継いでいない。

でも、鈍翁さんのおうちで見たそんな理由で、上のきょうだいや祖母がハイカラな洋食を食べていたなんて知らなかったし、お箸の持ち方はぶたれながら直されたけど、ナイフやフォークを使ってのきちんとしたマナーなど、教えてはくれなかった。

殆どのコがそうだったけれど、高校3年のテーブル・マナーズという講習で生まれて初めて箱根の老舗ホテルで、フランス料理なるものを、きちんとナイフとフォークを使ったマナーを学ぶ、というものに連れていかれた。
ナイフとフォークを使ってサカナを食べろ、バナナやりんごを剥けといわれ、なんでこんな辛い緊張した思いをして、ごはんを食べなくちゃいけないんだ、2度とフランス料理なんか食べるものか、とみなで言い合ったものだった。
箱根宮の下の冨士屋ホテルだったのだが、つらい目に会いながら食べるおいしいのかなんだかわからない西洋料理より、ジョン・レノンやチャップリンの写真の方が興味があった。

また話がそれた。
そんな風に、母たちは、自分たちが子供時代に触れたもの、を取り戻すだけで、特にわたしに触れさせる気もなかったらしい。

わたしは、能も歌舞伎も知らなくて、茶の湯のたしなみもなく、着物もやっときられるようになった。でも、能・狂言や、着物も、ずっとわたしのコドモ時代から、わたしの傍らにずっとあったものだった。でも、これらに自分から触れるようになったのは、ほんの8年程度前のことなのだ。

先日、鶴川の武相荘に行って、茅葺屋根を見て、一気に、母方の祖父母や叔父叔母のことを思い出したのは、さきほど書いた。
そして、母たちが、少なからずもお邸のようなところに住まわせてもらって、わたしにも想像のつかない生活をしていたこと、そこから戦争をはさんで、祖父の病と共に、一気に逆境へと進んでいった貧しさの象徴が、茅葺屋根だった。

その同時期、この鶴川のおなじような茅葺屋根の家に居を構えていた次郎さんが、「マッカーサー草案」を一晩で日本語訳せよと命じられ、外務省翻訳官に「白州さん、シンボルというのはなんやねん」と問いかけられ、「井上の英和辞典をひいてみたらどや?」と答えて、「やっぱりシンボルというのは象徴や」と、一冊の辞書により決定された「象徴」という言葉を含んだ新憲法が制定された。

急激な改革に次郎さんは危惧を抱いていたというが、すくなくとも「戦争の放棄」に守られ、わたしの父母たちは、失われたあのくるしい時代、戦争によって、勉強さえ満足に出来なかった時代を取り戻そうとしている。あの時代を知ってる人たちは、憲法第九条「戦争の放棄」に守られていることを良く知っている。

老人となった父母が、なお未来を明るく語ろうとしているのは、いま平和に守られているからだ。

今年は祖母の生誕百年で、憲法制定六十年。

この年に、その平和憲法へみずから、穴をあけるような動きにたまらなく不安をおぼえる。
ふたたび、戦争でさまざまなものを奪われた老人たちに、それから、これからの未来に、不安を与えないでほしい。

「白州次郎が生きていたら「また対米支援のための改憲かい」と問うのではないか。」(春名幹男氏)の言葉が、武相荘を見学しながら思いだされた。茅葺屋根が、思い出と、今を結びつけた。

それにしても、なぜ、わたしは、えんえんと、音楽に全く関係のない、この家族史を新月日記に書いているのだろう。
先に書いた、ふしぎなこと。祖父母や両親が見て触れて、そして自分の幼年期から、いまにいたるまで、すぐに身近にあった、茶道具や、着物や、能や狂言や歌舞伎。常に、生活と共にありながら、それらに目を向けなかったわたしとって、物理的には近くにあっても、なんの関心もない、それは、ひどく遠いものだった。

しかし、8年ほど前、ちょうど勤めていた職場を辞めて、雇用保険をもらいながら、次に行くまで、時間に余裕ができた頃、着付けを習いはじめ、たんすのこやしだった着物に興味を持ち始め、歌舞伎や、薪能に行ったり、そうすると、叔母や母が帯や着物をくれたり、そんな話の流れで、あの板橋の茅葺屋根に話が及び、家ではなく茶室であったことを知った。

そして、同じ時期、パソコンを習い、ねこのサイトをつくり、でも、そこに、場違いな「新月」の2枚のページを作った。新月は、この時までの20年間、ずっと心の中、ひどく近くにいたけれど、時間的にも、物理的にも、遠い、遠い、はるかに遠い存在だった。

そして、それから4年経ち、ある日突然、新月が現れた。
この経緯については、「このサイトについて」や「24年目の新月」に書いてあるので、今更ここでは触れないが、この時から、すでに新月は、ボックス制作に向けて、メンバーが再び集まり、動き始めている事を知って、どれほどうれしかったかわからない。

そして、メンバーの書いた文章を読み、おそらく初めてこのサイトに来られた方が、まっすぐ最初に読むであろう「新月全曲目解説」「新月史」に、心躍らせ、そして、そこに書かれていることが、単に音楽のことには、とどまらないこことに、すぐに気づく。

まだ、ボックス完成は、音源発掘、制作途上で、相変わらず音源は過去のまま封印されたままだったけれど、新月メンバーそれぞれの手で書かれている文章を読み、それは、民間信仰の事であったり、当時の最新式の音響システムであったり、シュルレアリスムの世界であったり、夢と挫折、映像、人とのふれあい、美・芸術について、またその時代の空気、であり、どこかで、わたし自身が持っていたもの、あるいは、まるで知らない世界であり、また、知ってはいるけれど、触れたことのない世界で、これは新月の楽曲に感動するのみならず、さらに、芸術に触れたい、自分が体験したい、いろいろなことを思い出したい、もっともっと、世界を広く見たい、その才能に加えて、メンバーが読んだもの見たもの体験したものそこから広がるイマジネーション。
新たな音を聴く前から、そう思わせる、目を瞠るものだった。

つねづね、新月はわたしにとって、足し算の音楽だと思っていた。
そして、メンバーの書いたものから、さらにいろんなものを教わった。
上記の武相荘も、新月に教えてもらった。

このサイトを始めてから、すこし新聞もちゃんと読むようになったような気がする、美術館に行って何時間もいる事は以前から変らないけれど、さらに、違う角度から見ることができるようになった、ような気がする、いつもの日常風景の中、以前なら、脇でやりすごしてしまうような出来事が、きちんとしたシーンとして、捉える事ができるようになった、用な気がする。

でも、この「足し算」、それがなんなのか、はっきりしたことがわからなくて、ずっと考えていて、でも、なんとなく、いきあったのが、この家族史で、これを、パズルと名づけて、少しづつ書いていた。

わたしの両親が、さらにその両親から、幼少期から受け継いだもの、そこをとりまく環境、のなかで、そこで持っていたさまざまなもの、得たもの失ったもの、それは思い出であったり、物であったり、大事な人であったり、さまざまな経験のなかから、わたしの中に受け継がれてきたもの。
いままで、家に、家族と共にあったものに、ようやく目を向けることになった時期が、新月と再び出会った偶然は、やはり必然であったと強く、思う。

この時になって、わたしの両親やその家族が、たいせつにしていたもの、その歴史に目を向けることが出来て、近くにいながら遠かったものが、いま、惑星みたいに、わたしを取り巻いている。

このパズルを書いている途中から、今年は祖母の生誕百年。憲法改定六十年だと知った。
茅葺屋根の茶室に住んでいた祖母たちと、武相荘が、つながったのが、今年だった。
冒頭に書いた、わたしが持っている帯は、益田鈍翁さんの、お孫さんである、画家益田義信さんの奥様から戴いたという帯である。このいただいた帯は、祖母から母、そしてわたしへと受け継つがれた。
祖父母や母やそのきょうだいたちのさまざまな歴史を知っている帯。ずっとそばにあったのに、知らないまま、わたしから遠かった帯。いつか、この帯を締めてみなければと思う。

そして、新月とは、わたし自身のなかに、脈々と受け継がれていたのに、無意識のうちに遠い星にあずけてしまっていた、両親・祖父母、その祖先、それにかかわったひとびとの思い、そしてまた、今を生きる私自身に繋がるすべてのひとびと、森羅万象を、遠い星からひとつづつ、渡してくれた、なにか。

新月を聴くと、何か必ず映像が見えると思っていた。
しかし、それは、そうではなく、無意識のうちに遠い星に預けていたものを、心のなかに、描こうとしたものだったのかもしれない。

新月は融通無碍。だから、まだまだ、これから、わたしの知らない色が、パズルとして、足し算されていくのだろう。