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HAL

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  • 鎌田と小久保は東京都杉並区立大宮中学校の一学年違いの先輩後輩。
    大宮中で、鎌田はすでにロックバンドを組んでおり、当時はベースを担 当していた。区立浜田山会館ほかにて、コンサートを数回(正確な回数は不明)に渡り開催。しかしこの当時はまだ、ロックに市民権は無く、 「ロックをやるのは不良」と評される時代で、保護者らが学校から、数度に渡り呼び出しを受けたりもしたという。

  • この当時の小久保と鎌田はまだ面識がなかったが、鎌田は華の剣道部員(?)で初段。
    また卒業時には生徒会長として卒業の辞を読んだり何 かと目立っていた(!)ので、小久保には良くも悪くも、当時の鎌田の記憶が残っていた。

  • 所は東京都立富士高校。鎌田と津田が出会う。
    津田が鎌田の中学時代からのバンド「ターンテーブルシステム」に合流。(この中学生的発想 のバンド名、津田いまいち気に入らず・・・)しかしレパートリー的にはオリジナリティを模索していた当時の「ターンテーブルシステム」は、 HALの前身バンドといっても過言ではないだろう。
    また特筆すべきは当時のドラマー田中文彦氏。現在ジャズドラマーとして、また国立音楽院ドラ ム科講師等、育成指導の場に於いても活躍中である。

  • また 鎌田、津田入学時に於いて、富士高には音楽といえば格調高き管弦楽部しかなく(女子高のなごりか)、鬼の生活指導部長ら教師達との 激しい攻防戦の末、軽音楽同好会(実質ロック同好会)を作る(鎌田談:フッ、ロックだぜ!)。
    後にはフォークの女の子とかも入ってきたようだ が・・・・・。

  • 鎌田、津田高校二年の時、富士高に入学した小久保と出会う。
    クラシックしか知らなかった無垢な小久保少年に2人が変な影響(?)を与 え、「人生を狂わされた!(笑)」とは小久保談。小久保は管弦楽部でティンパニーを叩いており、鎌田らが作った軽音楽同好会にも掛持ちで所 属。(クラシックとロックと同時進行でした。どおりで勉強しなかったわけだワ:小久保談)

  • 1972年吉日・・・。東京は世田谷区成城の砧(きぬた)区民会館にて、鎌田、津田の取り合わせとしての初コンサートを行う。
    当時のレパー トリーは既にハード+ヘヴィー+プログレといった感じで、伝説の”アイアンバタフライ”のレパートリーを4曲も含んでいた。中でも17分超という 不朽の名作「イン・ナ・ガダダヴィダ」のフル演奏は圧巻であった。
    また「バタフライ・ブルー」に至っては、もはやプログレそのものである。

  • この時の司会進行を受け持ったのが小久保の同級生、平野文氏。氏は当時より劇団に所属されて居られたようで、後に「ラムちゃん」の声優 さんとして一躍有名になられた方。また「平野文の今日のメニューはさかなかな?」など著書も多数有り、現在も多方面にて活躍中である。
    ちなみに、ラジオのパーソナリティをされた際、小久保がプレゼントした、「新月/新月」を本来このような曲がかけられるような番組ではないのにもかかわらず、友情から「わがまま」を押して、『白唇』をオンエア。しかし、読み方がわからず、苦肉の策で「ホワイトリップ」と読まれたとか。

  • 一方で当時、鎌田、津田は出会っていないが、新録メンバーの松本かよも、小久保の同級生。学業よりも「杉並児童合唱団」のピアノ伴奏、後に団長として、やはり音楽活動に励んでいたという。(このころの杉並児童合唱団はNHKの「歌は友達」、ドリフの「8時だよ全員集合」などのTV出演で芸能人並に忙しかった:小久保談)

  • 小久保は、当時富士高の音楽室で、鎌田がエルトン・ジョンの曲をピアノで弾き語りをしていたのを鮮明に覚えているという。(小久保談: ロックの歌い方(ビブラートのかけ方など)を鎌田さんの歌唱法でつかんだ覚えがある)(鎌田談:そういえばエルトン・ジョンにはいっときハマ リましたネ。”Sixty Years On”が好きだった。特に彼のライブ盤は最高!)

  • 鎌田が1973年に『サー・ボーデンハウゼン』作曲。1974年に『魔人カルナディスの追憶』作曲。

  • 1974年に津田、鎌田で、東京は錦糸町のキャバレー「カントリークラブ」(今で言うロッテ会館並びか?)にて箱バン(=専属バンド)経 験。(小久保談:この世代の若者には考えられない金まわりの良さを経験している・・・)(鎌田談:うそだ!)

  • 津田が75年に青山学院大学に入学。高橋と出会う。暫く津田、高橋にて「ベラドンナ」と言うバンドでリハーサルを重ねる。
    その後、津田より高橋へ鎌田の存在が知らされ、新バンドの構想が練られる。 高橋の知人で会った桜井に声をかけ承諾を得たことから、HAL誕生の条件が整う。

  • 1975年5月頃HAL結成。

  • 初ライブは、東大の5月祭。桜井は、サー・ボーデンハウゼンも魔人カルナディスもやっと覚えたての時に度胸試しに乗り込み、結構うけ て、これで自信をもったという記憶があるという。
    しかし、津田の(今なら100万円はくだらないという、船便で待ちに待った)ビンテージものの マーシャルのヘッドアンプを東大生に落とされ、津田にしては珍しく不機嫌で怒っていた事をメンバー全員記憶。最後は険悪なムードで終わる・・

    ・・・。
  • 次のライブは、歌舞伎町コマ劇場上の大型ディスコ「ビックトゥゲザー」で9月か10月に行う。高橋の記憶によると、ISBという団体が、青 学の部室に来てHALを勧誘。練習あるいはコンサートでも、昼間なら自由に使って良いという、若者の音楽育成の場として解放するという名目で、 斡旋してもらった歌舞伎町ディスコ「ビックトゥゲザー」で、練習及びライブを行った。

  • 当時、高橋と津田で結成していた「ベラドンナ」で出演。そしてHALでも出演。

  • 桜井は、「ビックトゥゲザー」でのカルナディスの途中で、頭の中のデータが飛んでしまい、かなり焦り、その時、”プログレは難しい音楽だ"と思いながら、次のライブ会場へ向かった覚えがあるという。
    その後、「ビックトゥゲザー」で練習できなくなってからは、青山学院大学内のサークルALS(青山・ライトミュージックソサエティ)の狭い部室で リハーサルを行った。

  • 次が11月3日の青学の学祭でのライブ。桜井の記憶では、この時の出演者は、みな、ALS の所属バンドだった。 (この時点では、まだ譜面 を床に広げて演奏していた記憶がある:桜井談)

  • そしていよいよオリジナルメンバー最後のライブが、11月第3日曜日に毎年行われる東京は調布の電気通信大学学園祭で、ゲストバンド「コ スモスファクトリー」の前座で出演した、かの「新●月●全●史」収録のもの。ちなみに、ブックレットの写真キャプションで「青学の」となって いるのは誤り。
    アルバムのジャケット写真も、鎌田、桜井が脱退した後の第二期HALのもので、収録音源のオリジナルメンバーのものではないこと が、すでに判明している。

  • 桜井の記憶によると、トリプレット・カラーズはライブでの演奏は電通大のみとのこと。
    またオープン・ビフォー・ノックは、電通大以前に どこかのライブで一回だけ演奏した記憶ありとのこと。(電通大ではすでに譜面は見ていなかった。:桜井談)

  • HALのステージを電通大生だった小久保が強力にバックアップ、PAは当時としては画期的な4チャンネルを使用。オーディオマニア小久保の自 作アンプ&スピーカ(長岡式バックロードホーン)で。

    何を隠そう、実は小久保が鎌田の音を廻していた。(ンー〜と・・・ボックス収録のライブ音源 で、鎌田くんのソロがやけに音が回っているのは 4チャンネルだったからなのか:津田談)
    (この時小久保はRINGの前身バンドとも言えるBLIZARDというバンドで出演。(小久保は忘れていたが、桜井がしっかり覚えていて「小久保君がブラックサバス歌っていたよ。」):小久保談)

  • 1975年晩秋・・・。東京は世田谷区桜上水、当時鎌田の住んでいたアパート本多荘(大家さんが良い人だった)にて打ち上げ(解放記念?)。とりあえずご苦労様でした




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